人の集団の中で、平均値に合わせられない個体って、何かといじめられます。
しかも、本人は「いじめられた」と感じていても、周囲は「いじめてなんかいない」と思っていたりします。
いじめはいけない、といくら言われても決して無くならないのは、この感じ方の相違があるからなのではないでしょうか。
この感じ方の相違は、なぜ出て来るのでしょう。
私の体験から、少し考えてみます。
いじめられる理由
人の集団の中でいじめに遭う個体には、大抵、その場での平均的な言動ができない、という特性があります。
例えば、子供の頃の私は、たぶん発達凸凹の影響で、同年齢の子よりも成長が遅く、その年齢なりの人間関係を築くことができませんでした。
流行りのテレビ番組を見て、話しを理解し、学校での話題についていく、ということが全くできなかった、というよりテレビ番組自体に興味をもてなかったんですよね。
さらに、運動神経がものすごく悪く、周囲の子たちの遊びについていけなかった。
例えば鬼ごっこなどをすると、極端に足の遅い私ばかりが鬼になってしまうのですが、私が鬼になると誰も捕まえられなくなり、遊びが全く進展しないので、一緒に遊んでいる子がつまらなくなる、ということが頻繁にあり、そのうち遊びに誘われなくなりました。
遊びというのは、一定のルールに従える同レベルの人でなければ、一緒にはできないことなんですよね。
高度な遊びであるスポーツ競技などは、まさにその通りでしょう。
周囲の子にとって、私を仲間に入れることは「しらける・つまらない」ことだったと思います。
当然つまはじきにされるのですが、やはり「ぼっち」でいることは不安なので、自分としては仲が良いと思っている友達についていこうとします。
けれど、友達にしてみれば、それがとても鬱陶しい。
自転車で遊びに行くにしても、一人だけ自転車に乗れない私を連れて行くには、二人乗りをしなければならない。
当然「二人乗りは危ないからダメ」と怒られるのですが、友達としても私一人置いていくのは気が引ける。
本当に面倒くさい…。
それでも、何度追い払っても身近にいて、鬱陶しいものだから、そこからだんだん、いじめの標的として固定化してしまったのですよね。
いじめる理由
子供は大抵、特に意味もなく「いじめごっこ」とでも言うような、いじめたりいじめられたり、という遊びをします。
「自分」と「他の子」は当然「別人物」なのですが、その違いに興味を持って、「いじってみる」のかも知れません。
その内に「こいつは特に変」という個体が特定される。
「こいつは我々の遊びの邪魔にしかならない」となれば、特定のターゲットになります。
いじめる側にしてみれば、いじめられっ子が邪魔だから、最初は追い払う意味で、ごっこ遊びでは無い「いじめ」が始まるのでしょう。
ところが、どんなに追い払っても近くにいる、同じ学校にいるものだから、だんだんと「いじめること自体」が「遊び」になっていくんですよね。
持ち物を隠したり捨てたり、聞こえるように悪口を言ったりすることが、ゲームのようになってしまう。
「今回は簡単に見つけられてしまったけれど、次は絶対に見つからない場所に上履きを隠そう!」
等々、わくわくする秘密の共有のような連帯感も得られるのだと感じます。
これは、どこまでも「自分たちが楽しむため」にやっていることなので、大して悪意は無いのかも知れません。
この「連帯感」と「悪意の無さ」が、いじめられる側にとっては、物凄い恐怖になるんですよね。
授業に必要な物がしょっちゅうなくなるので、教師からは「忘れ物が多い」と怒られ、親からは「失くし物ばかりする」と怒られ、それでも誰がやっているのかわからないから被害を訴えることもできず、何故失くなるのかわからないふりをして、みんなから怒られるしかない…。
…自分の周りにいる人は、全員が私を嫌っている「敵」なのかもしれない…。
いじめる側にも正当な理由があるにしても、いじめられる側が受けるダメージは必要以上に酷いものになります。
「正当性」はどちらにあるのか?
いじめる側の理屈としては、「こいつがいると楽しくない。自分たちに負担がかかるから、追い払いたい」ということでしょう。
いじめられる側は、「みんなに合わせられないのだけれど、わざとやっているわけじゃない。どうしていいかわからない」のですよね。
いじめる側、いじめられる側、双方とも、好きでそこにいるわけじゃない。
気付いたらそこにいた、他に行くところが無いからそこにいる、んですよね。
どちらも「存在してしまうのは仕方がない」のです。
「仕方がない」のだから、どちらにも「自身の存在を保つ正当性はある」のだと思います。
気に入らない相手と密な関係を持つ必要は無い、いじめたり、追いすがったりする必要は無い、のですよね。
必要最低限の接触だけ保てば良いのだと思います。
「ぼっち」であっても、他に楽しみがあるのならば構わないのだと思います。
ところがこの「関わるのは必要最低限で良い」という感覚は、「みんな一緒に」という理想から外れるので認められない、という既成概念がある。
なんでそこまでみんな一緒、一蓮托生でなければいけないのでしょうか。
「効率」のための「平等」
結局は、効率の良い生産活動のため、なんですよね。
大人になって、効率よく働ける人(=どこにでも使える交換可能な部品)になれるように、という意味以外に何があるのでしょうか。
平等であるからこそ交換可能なのだし、平均値に合わせられるからこそ効率的、なのです。
そういう効率的な社会を維持するための価値観である、平等だからみんな一緒、一蓮托生だから安心、という感覚は、単なる誤魔化しだと感じます。
生き物である限り、平等も一蓮托生もあり得ないのですが、それでは交換可能な部品になる「大儀」が無くなってしまう。
意義も無いのに、自己犠牲的な交換可能な部品になりたがる人など、いないでしょう。
産業のための部品であって生きている人間ではない、という、人の捉え方に無理があるから、歪みとしていじめが生じるのではないでしょうか。
人として理不尽な扱い、つまり人としての尊厳の剥奪を、「平等にみんなに」課してしまっているのだ、と感じます。
会社内で起きる「おとなのいじめ」が正にそれでしょう。
子供というのは親の価値観をそのまま映してしまいますので、学校内でも家庭内でも同じ事が起きるのだと思います。
大人が人としてまともに生きることができない限り、子供が救われることも無い、と思います。
効率主義・能力主義は正しいのか?
いじめとは、効率的でない個体を集団から追い出そうとする行為と、その行為がゲーム化した状態、の両方があるのだと思います。
ゲーム化した状態だけを「悪質な虐め」と捉える人も多いかもしれませんが、集団から排除しようとする=居られないように仕向ける行為も、十分に「虐め」です。
気軽に他に行く場所が無い状態が解っていて、「嫌なら出ていけ」と言うのは、どう捉えても「虐め」ですよね。
集団の中で、能力にばらつきがあることは効率的ではないのですが、能力にばらつきのない個体のみを集めることは可能なのでしょうか?
そもそも、個体の特性はバラバラなのですから、選別試験をしたとしても、全くばらつかないようにするのは、無理がありますよね。
さらに、どの人も、望んでこの世に生まれてきた訳ではないはずですし、生まれる場所も時代も選べません。
どうしてだかわからないけれど、どの人も、不備な心と身体のままここにいてしまう、訳です。
それに対し、ここにいることが不適切だ、という理由で追い出しにかかったり、不備であることが罪だとして苦役を課してくるというのは、虐めというより単純に「人権侵害」でしょう。
学校などでいじめが起きたとき、教師が「いじめではなく遊びの一環」と捉えるのは、ある意味当然のことだと思います。
教職員は、効率主義・能力主義に適応して生きて来られたから、教職に就いていられるのですから。
考え方はどうしても、悪意無く、連帯感を持って「遊び」としていじめをする子たちの側になります。
「みんなに合わせられないのは、努力が足りないから。努力をしない人が悪いのですよ。」
…合わないことの方が普通であるし、合わせるにも限度があることを、大人が身をもって理解しない限り、いじめは正当化され続けるのでしょう。
「いじめ」=「人としての尊厳の剥奪」
人として扱われない状態は、全て「いじめ」と言っていいでしょう。
「差別」という言い方をすると、大袈裟に思われてしまいますが、やっていることは同じだと思います。
差別やマイクロアグレッションも、マジョリティにとって不快な存在(=マイノリティ)を「排除したい」という感情から出て来ます。
しかし、排除される側にとっては、好きでそこにそうして居るわけでは無いのですよ。
嫌でも「そこに、そうして」居てしまう。
存在自体が不快だ、と言われたら、この世から脱出する以外の方法は無いのですから、酷いですよね。
つまり、人権侵害、人としての尊厳の剥奪、なんですよ。
「こいつが存在することが不快だ」という感情を、どう自分自身の中に落とし込むか。
全ての大人が、このことを深く考えない限り、効率や能力を礼賛する価値観は変わらないし、価値観が変わらなければ子供のあり方も未来も変えられない、と感じます。
「不快だから目に付かない場所に隔離する」のではなく、不快であっても、面倒であっても、仕方なく存在してしまう者同士としての理解が必要なのでしょうね。



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