「感情の理解」は大切
「感情的な人」というと、理性的では無い、頭の悪い人、というイメージを持ちやすいですが、感情自体は少しも悪いものではないんですよね。
むしろ、自身の感情を受け止められなかったり、感情を感じられないことのほうが、問題です。
否定ばかりされて育った人の中には、自分が何を感じているのか、何を望んでいるのか、わからなくなってしまう人も多く、自信喪失が起こりやすいです。
犬や猫にだって感情があるように、生き物が生きる上で感情はとても大切です。
「危険」も「安全」も、感情で察知できますから。
それが察知できなくなれば、当然生きづらくなってしまいます。
感情が動くことが悪い訳ではなくて、「感情をぶちまける人」がはた迷惑だ、という話なんですよね。
感情をぶちまけられるとなぜ迷惑か、というと、感情って、個人個人の境界線(バウンダリー)を越える性質があるから、ですよね。
だから、嬉しいとか、悲しいとか、感情を共有できる人とは、強い連帯感を持つことができるんですよね。
逆に、共有できない一方的な感情を押し付けられると、嫌悪感になってしまうし、大袈裟な言い方をすると個人領域への侵略=人権侵害になってしまうんですよ。
嫌悪を感じて、距離を取れる場合はまだ良いのですが、関係によっては距離を取れないこともあります。
家庭とか職場とか、逃げ場所の無い場合は、本当に辛いですよね。
逃げ場が無いからといって我慢し過ぎると、感情が麻痺してしまいますので、危険です。
私、実家にいた頃、稼ぎがないのに住まわせてもらっているという引け目から、親から罵られても反抗できませんでした。
家賃を支払う代わりに罵られてあげる、という状態だったんですよね。
精神状態悪化するのも当然です。
家の中に引きこもる・引きこもらされている人って、そういう状態の人が結構いるんじゃないかと心配です。
家族という人間関係は、何かと遠慮なくバウンダリーを越えやすいものですから、こじれやすくもあるんですよね。
出来る限り距離を取ってください。関係改善にも役立つと思います。
共依存は泥沼だ
共依存になりやすい人の特徴で、
”自分の存在意義を、他者の感情(欲望)の吐き出し場として見出してしまう人”
というパターンがあります。(かつての私)
恋愛依存系の人によくありがちで、相手の欲望・ワガママをただただ受け止めることでしか、自分の存在を認めてもらえない、という立場になってしまう。
…これはねぇ、本当に、人格崩壊しますよ…。
ある意味「他人のための便所」になってしまう訳ですから。
尊厳も何もあったもんじゃない。
これ、支配する側も、同様なんですよね。
他者を支配したい、という欲求が強い人って、別の場所で「理不尽に支配されている人」なんですよ。
感情や欲望を遠慮なくぶつける、というのは、相手を「力で支配する」のと同じ意味を持ちます。
その関係の中では、自分が絶対的な立場(ある意味”神”)に成れる、という錯覚を持てるんですよね。
他所では服従する立場であっても、ここでは絶対的に強いと思えれば、溜飲は下がり気分は良くなります。
けれどここには罠があって、気分が良ければ良いほど、支配させてくれる相手に支配(コントロール)されてしまうんですよ。
”感情をぶつけることしかできない赤ん坊と、全ての世話(≒完全なコントロール)をする母”
の関係になってしまいます。
そして二人は、ドロドロの共依存関係に陥っていく…。
…コワイですねぇ…。
共依存の泥沼にトキメキを感じる、というの、あると思います。
それって、泥沼の主導権争いに持ち込めば、ワンチャン勝つ見込みがあるかもしれない、という希望を見つけてしまうから、なんだと思います。
ドラマの演出ならそれもありだと思いますが、実際の共依存関係はお互いを削り取り合うエグい「消耗戦」でしかないので、どちらも疲弊して共倒れ、というのがオチでしょう。
恋愛関係に限らず、「自己犠牲が美しい」と思っている人も要注意です。
相手のために自分が犠牲になってあげる、という所になぜ快感を覚えるか、というと、犠牲になってあげることで相手に莫大な感情的負債を負わせることができる、だから相手を支配できる、からじゃないでしょうか。
SとMどちらに主導権があるか、という話になってしまうんですよ。
どちらにせよ、感情的な依存関係は、相手を搾取して欲望を満たす、お互いを消耗させ続ける関係になってしまうんですね。
「感情」って、かなり大きなエネルギーになる
感情って、良くも悪くも意外と大きな力を持っています。
悪い例として、以前にあった二つの大きな事件の犯人、大阪でクリニックに放火した人、埼玉で訪問医を射殺した人、この二人なんだか似ていませんか。
私が受けた印象に過ぎませんが、この二人って、自分が何をどう感じているか(=自分の感情)が理解できていなかったんじゃないか、と感じます。
二人とも以前から、周囲の人が理解できないことで突然ブチ切れる人だったようです。
癇癪を起せば、ワガママをぶちまければ、誰か(たぶんお母さん)がどうにかしてくれる状況の年齢から、成長することができなかったんじゃないかと思います。
成長し損なったまま大人になってしまった人の単なる「癇癪」で、あんな悲惨な事件が起きてしまう…。
とても怖いと思うんですよ。
この二人が実際にどうだったかはわかりませんが、知能や情緒の発達に凸凹のある人って、自分の感情の理解も、定型発達の人より遅れがちになります。
それでも、たぶん人間って気付きさえあれば、能力に制限があったとしても、何歳になったとしても、成長できるんじゃないかと思うんですよ。
たぶん彼らには、気付きを得られる環境が無かったんじゃないかと。
教育を受けられる機会が少なすぎたんじゃないかと。
孤立したまま生活が荒んでいって、自暴自棄の自爆を起こす、って本人の問題が大きいのは当然なのだけれど、社会の側にも責任があると思うんですよね。
気付きを得る機会を作ろう
実際、いい大人になってから新たな気付きを得られる機会って、そう多くはないです。
何かに興味のある人なら、自分からフィールドワークに出かけたりするでしょうけれど、興味を持つこと自体にキッカケが無かったら、どうにもなりません。
さらに世の中に無関心になると、どんどん自分だけの世界に閉じこもり、どんどん認知のバイアスがおかしな方向へ曲がっていきます。
せめて孤立をしないように、外の世界への興味を失くさないようにするしかないのかと思います。
私自身も、一人で放っておかれることに苦痛を感じない方なので、何かと引きこもりたがる性質なんですよね。
でも、引きこもりたい、という気持ちが何で出てくるのか、というと、人間関係を築くのがヘタクソで、緊張のあまり疲れ切ってしまうから、なんですよねぇ。
それでも、完全に引きこもってしまうのは、精神衛生によろしくないのは、実体験としてわかっています。
なので、自分なりのペースで、ゆるゆると、世の中とつながっていよう、と努力しております。(これでも、一応、ね)
上記の二人にも、私と似たような傾向があったんじゃないか、と感じるんですよね。
ただ彼らは、世の中との縁を、ブチ切れた感情の勢いに任せて断ち切ってしまった。
…そこまでブチ切れる前に、自身の感情を受け止める方法を学んでいれば…。
プラスのエネルギーに変えよう
これね、宣伝と思われるとちょっと嫌なんだけれども、自助グループって、自分の感情の受け止め方とか、自分なりの社会との関わり方とかを学べるんですよ。
ゆるいつながり、も得られる。
もし、孤立感に苛まれていたり、世の中への恨みつらみが爆発しそうだ、という人がいたら、自助グループも役に立つよ、解決策の一つになるよ、ということを頭の隅に入れておいてもらえたらいいな、と思ってます。

↑特定非営利法人ASK ホームページ 主な自助グループ一覧があります。



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