欲望って、ある意味、素直な感情の一種です。
自身の「欲望」自体を、「理性で制御しなければいけない」と強く思い込み過ぎると、反知性主義的な問題が出てきてしまいます。
⇩反知性主義とは Wikipediaより
生きづらさとも関係し、身近な問題にも色々関わってくる、この感覚。
少し考えてみようと思います。
「反知性主義」って、要するに「上から押し付けられるのが嫌」なんだよね
有無を言わさず「これが正しいのだ!」と力で押し付けられてしまう。
それは誰だって「嫌」ですよね。
嫌なものは嫌だ、と言っていいんですよ。
むしろ、「嫌だ」と言えないことが問題になります。
「嫌だと言ったら馬鹿にされるのではないか?」
「反抗的だ、と後で制裁を加えられるのではないか?」
等々と思わせる雰囲気を出すのは、ある意味パワハラですよね。
反知性主義って、要するに「科学的エビデンスという暴力で、有無を言わさず自身の感情を蹂躙された」と訴えているんですよね。
どんなに面倒くさくても、相手に伝わるように真摯に説明しないのは、伝える側の「手抜き」なんですよ。
けれども、どんなに説明をしても、相手には伝わりません。
なぜなら、伝える側は「エビデンスに基づいた事実」を述べていて、
受け取る側は「自分の感情を納得させてくれ」と望んでいる。
この食い違いが、反知性主義者との話し合いを困難にしてしまう原因なのですよねぇ…。
自分の感情は、受け入れていいんだよ
「感情的に気に入らない」というのは、どうしようもないことなんですよね。
そのこと自体は否定しなくていいんですよ。
感情が揺れ動くのは、人間として当然のことなのですから。
感情が動かない人のほうが、むしろ何らかの欠陥がある人です。
ただ、「気に入らないから、一切を拒否する」となると、自分の可能性まで狭めてしまうことになるんですよね。
なので、「何で気に入らないのか」を自分で吟味する必要があるんですよ。
自分の感情って、結局は自分自身にしかわからないですから。
自分の感情を納得させるのって、悲しいですが、自分自身にしかできないんですよ。
「気に入らないモノ」って、大概「新しく来たモノ」
「意味もなく気に入らないモノ」って、大体が「馴染みのないモノ」ですよね。
転校生がいじめられるのも、ガイジンが仲間外れにされるのも、「馴染んだモノとは違う文化を持っているから」です。
それを認めてしまったら、今度は自分が異質な者=除け者扱いされるのではないか、という恐怖もあります。
世の中の側が変わってしまって、自分が取り残される・除け者にされる恐怖。
これ、気持ちは解りますが、ここで設定されている「世の中」は、とても狭く限られた閉鎖的なものです。
この「狭くて閉鎖的な世間」に怯える感覚は、気分が悪くなるほどによく解るのですが、よく考えると「狭くて閉鎖的な世間」という設定が、単なる思い込みだったりするんですよね。
時代背景や生活習慣がごく限られた「狭い世間」って、例えば「自分が10歳の頃の実家の中」のように「その時・その場」にしか存在しません。
その中でのルールが、未来永劫どこへ行っても常に正しい、なんてことはあり得ません。
そもそもの話、自身と同質なモノだけでできている閉鎖的な世間、なんてモノは、最初からありませんから。
家族と言えども「別々の個人」ですので、同じ物を見て同じ感想を持つとは限りませんし、個性も時間経過と共に変化するのが「普通」です。
それでも、人間関係が濃く限られていると、少しの違いにさえ違和感を持ちやすいのですよね。
そこで、自分が弾かれないように、毛色の違う他者を見つけて攻撃して、自分の正当性を確かめようとするのですよね。
新しいモノが怖い、のではなく、単純に「自分が仲間だと思っている人々(文化・習慣)から、自分がはじき出されるのが怖い」んですよ。
怖いのは新しいモノではなくて、仲間外れにされること
結局、恐れているのは「新参者」のことではなくて、「昔馴染みの仲間(同じムラの人)からはじき出されること」なんですよね。
これ、「あなたと私は同じよね」という感覚が強すぎるから起こる、自家中毒みたいなモノではないでしょうか。
どんなに濃い関係であっても、他者は他者なんですよ。
悲しいけれど、仕方がないんですよ。
ムラの人たちとは、境界線(バウンダリー)を保てる距離で、サラッと付き合っておけばいいんですよね。
⇩バウンダリーとは
バウンダリーを保つには、自分の感情を吟味する力が必要なのですが、これって、教養の力なんですよねぇ。
知性ではなくて、知識を使い実生活に潤いを与える「教養」が必要なのです。
反知性主義の人たちが嫌う教養って、反知性主義的な恐怖を解くのに、とても重要なものなんですよ。
感情の安全基地としての定位家族
定位家族(原家族)とは、自分が子どもとして生まれ育った家族のことです。
⇩家族とは コトバンク (こちらの解説、面白いです)

子どもの頃、定位家族内で否定されて育つと、自尊心が低くなると言われます。
自分の感覚や感情を「間違っている」と言われ続ければ、自信が無くなるのも当然です。
そのまま育つと、自分で自分の感覚や感情を否認するようになってしまうんですよね。
AC(アダルトチルドレン=機能不全家庭出身者)にもありがちな傾向です。
自分が感じている感覚や感情を、否認=無いことにしてしまうのは、自覚できない葛藤を抱えることになってしまうんですよ。
欲望はあるけれど、それが何だかよく解らないから、満足することもできない。
葛藤は有るのに、それが何だか解らない。
モヤモヤを抱える事になるので、それを解消するために「とりあえず目の前にある不都合そうな事象」が「悪い」事にして、攻撃してしまいます。
結果として、安直な陰謀論や似非科学にはまりやすいんですよ。
反知性主義と陰謀論の相性の良さは、こういう所にあると思えます。
反知性主義の人は、家父長的な古い家族観を大切にする人が多いように思えますが、実際には彼らは定位家族に安全性を得られなかった人たちなのではないか、と思います。
だからこそ、解りやすい指示をくれる強いリーダーを望んでしまう。
自身の感覚・感情を否定してしまうせいで、何が問題なのかの観点がずれてしまい、結果、現実的ではない「解りやすい」思い込み(昔からあったことは絶対的に正しい、等)に固執してしまうように感じます。
自分が感じる、感情や欲望を否定してしまうと、矛盾と混乱、極端な場合は洗脳などに陥ってしまうんですよね。
「気に入らない」という感情が有る、と認めることができなければ、「なぜ気に入らないのか」など考えようもありません。
まずは自身の感情を「認めること」が大事です。
自身の欲望が何なのか、理解できない不幸
私が生活の中で、一番モヤモヤ思ってしまうのが、「オレちゃんの欲望を叶えてくれないお前は悪人だ!」という感情をぶつけられた時です。
これをパートナーからぶつけられて困っている人、結構多いのではないでしょうか。
こういう欲望をぶつける人は男性に多いように感じますが、ぶつけ方の「質」の違いはあれど、女性にも確実にいる、と感じます。
私が感じることは、
「私はあなたの母ではない!」
なんですよね。
彼らが訴えていること(性的な欲求も含めて)は、
「完全なる母ならば、全てを叶えてくれて当然だ。完全なる母の役割ができないなら、お前はお払い箱だ!」
なんですよね…。
彼らは、フロイト的な表現をすると、「完全無欠なおっぱいに吸い付いたままの赤ちゃん」で、大人になれていないんですよ。
これ、単純に教育の失敗だと思います。
自分は宇宙の中心人物だから、「無償の愛」を他人から強奪しても決して咎められないはずだ。
なのに咎められるのは「宇宙の基準」が狂っているからだ。
乳児が持つ「健全な自己愛」を、大人になっても手放せないでいるのには、単純に育たなかったとしか言えません。
人間は社会を作らなければ生きて行けない生き物です。
なので、最低限の社会性を身に着けられるよう育てるのは、社会の責任なんですよね。
他者の持ち物をひったくってはダメだ、ということを教えるのは、家庭内だけでは教え切れません。
親個人だけでは、人間としての社会性までは育てられないんですよ。
この「育っていない状態」のまま放置されてしまった人は、常に満たされない欲望を抱えたままになるので、「攻撃的で不幸な人」になってしまうのですよね。
自分が本当に望んでいる事が何なのか解らないまま、「目先の欲望を力づくで叶えられる者こそが強者だ」という競争原理に突き動かされて生きるのでは、努力は全て虚しいものになります。
欲望が理解できれば、満たす希望も持てる
結局、自己理解ができないと、欲求不満をぶちまける迷惑な人、になってしまいやすいんですよね。
自己理解って、教養がないとできないんですよ。
教養なんて、生意気で無駄だ
という反知性主義的な価値観に囚われてしまうと、更なる欲求不満とイライラに囚われることになるんですよ。
欲望は、他者のバウンダリーを侵害せずに満たせばいいのです。
その方法を探せるかどうかも、教養なんですよね。
他者のバウンダリーを侵害せず、イライラしていない人ならば、それなりに共感を得られます。
そして、他者と完全に一致することは、どんな人でも無理です。
自身とは違う他者がいることを認められなかったら、自身の存在も否定されてしまうんですよ。
その「負のループ」に陥らないためにも、自身の感情や欲望をしっかり受け止められる力=教養は、どんな人にも必要だと思いますよ。

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