自助グループで使われる「12のステップ」。
このステップは、構造自体はとてもシンプルなので、独特な表現に慣れさえすれば、意外と理解しやすいと感じます。
しかし、これを実際の行動に移すとなると、難しいことがたくさんあります。
人間関係の希薄な私にとっては「埋め合わせ」が、とにかく難しい。
先日、たまたま読んでいたイルセ・サン著「こわれた関係のなおし方」が、かなり参考になるのではないかと思い、考えをまとめておこうと思います。

なぜ「棚卸し」をするのか
「12のステップ」の中に、棚卸しといって、今まで自分がやってきた事(良い事も悪い事も何でもない事も含め)の総点検をする、というステップがあります。
この、棚卸しということばも、なんか違和感があるというか、最初に「?」と思ってしまうポイントでもあるのですが、ここは「文化の違い」と割り切って、先に進めて大丈夫です。
⇩別ブログでもこの事を、あれこれ書いてます。よろしかったらどうぞ。

「12のステップ」は、元々アルコール依存の人のためのプログラムだったのですが、この「依存症≒良くない依存」に対処する方法は、様々な問題に応用できるものです。
人間というのは、社会を作って生きる生き物なので、どうしても人と関わらなければ生きていけません。
生活の中で何等かの辛さや困りごとが起きている時、そこには大概「こじれた人間関係≒よくない依存関係」があったりするんですよね。
機能不全家庭で育った人(AC=アダルトチルドレン)などの中には、「虐待をしたのは親なのに、どうして自分が棚卸し(反省)しなければいけないんだ?」と感じる人もいます。(私もそうでした)
けれど人間関係というのは、他者がいなければ成立しないものなので、こちらからこじれを解消してしまえば、相手から依存されようもない、のですよね。
棚卸しは、こじれをほぐす糸口になります。
こじれている、こんがらがっているから離れられなくなっているので、その「こんがらがり」を解けば、すっきりするんですよ。
こんがらがり=こじれた依存関係からの脱出に、依存症からの脱出方法である「12のステップ」がとても役立ちます。
私の感覚としては、ステップ中の実際の行動である「棚卸し」「埋め合わせ」が、こじれた人間関係にとても効果的だ、と感じています。
棚卸し、つまり、自分自身が周囲の物事をどう捉え、どう解釈し、どういう反応を示し、その結果どういう状況になったかを、様々な場面について思い返し、ノートなどに書き出してみることで、自分に付いてしまった行動の癖が「目に見える形」になるんですよね。
これが、こじれた人間関係をほぐす糸口になり、依存関係から離れる希望に繋がります。
棚卸しというのは、自分の悪行を裁いたり許しを請うことではなく、自分がどういう状況に置かれていて、その時何を感じどう行動したか、を、冷静に点検し、見直すことなんですよね。
嫌な事をされたのに嫌だと言えなかった、としたら、なぜ嫌だと言えない状況だったのか、など周囲の状況を冷静に理解することにも繋がります。
なぜ「埋め合わせ」が必要なのか
「埋め合わせ」って何なのか
「埋め合わせ」とは、たぶん最初は贖罪ということばだっただろうと推測します。
⇩贖罪とは。ここの解説面白いです。
簡単に言うと「罪滅ぼしのために善行をすること」です。
けれど、棚卸しと同様で「埋め合わせ」も、一方的に「私が悪う御座いました」と謝ることではないんですよね。
もちろん、借金をしたままバックレてしまった、などの「解りやすい迷惑行為」ならば、話は別です。
たとえ相手が受け入れてくれなくても、頭を下げて返済の意思を示すことが、埋め合わせの第一歩となりますので。
しかし、ほとんどのこじれた人間関係は、そんな単純なものではないと思います。
どんなにこじれた相手を遠ざけたとしても、人間関係の無い世界はないです。
心の中にかつてのこじれを潜ませたまま、新しい人間関係を築くのは、苦しいものです。
その、かつてのこじれをほどき修復することが「埋め合わせ」なんですよね。
なので、自分の側に「あいつだって悪いのに」という思いがあるままで、形だけの謝罪をするのでは、意味がないんですよ。
もやもやが残ってしまいますので。
「許し」って、何だろう
「贖罪(埋め合わせ)」と「許し」は、ある意味対になっているのですが、キリスト教文化圏にいる訳ではない者にとっては、どうも解りづらい感覚です。
「12のステップ」は、キリスト教文化圏でできたものですので、馴染みのない者には解りづらい感覚がどうしても存在してしまいます。
けれど、ことばに慣れると、そんなに難しいものではないんですよね。
虐待サバイバーの中には「親を許すことなんて出来ない」と苦しむ人も多いです。
これ、親がやったこと自体は許さなくていいんですよ。
むしろ、許したらだめだと思います。
どう考えたって「ダメな行為」なのですから。
ただ、その親は、その時なぜ、そんな行為をしなければならなかったのか、を考えることは大切です。
これは、自分の棚卸しをしていくと、だんだん見えて来るんですよね。
自分を取り巻いていた環境は、自分の身近にいた人たちを取り巻いていた環境でもあります。
理不尽な環境がいくつも重なった中で、自分自身が弱く不完全であったのと同様に、自分に危害を加えていた親たちも「弱く愚かで不完全」だったんですよね。
「親」は創造主などではなく、単に一人の人間です。
全うな選択肢を選び取る知恵を身に付けることができなかった、不幸な人間、なんですよね…。
それに気付くことが、「人としての存在」と「行為の善悪」を分けて考える、許しの第一歩なのかな、と思います。
許せるからこそ埋め合わせられる
親に限らず、自分に理不尽なことをした人たちが、なぜ、その時、その行為をしなければいられなかったのか、が解ると、
「どうしようもできない、お互いに不完全なんだ」
という納得が得られるんですよね。
自然と、相手に対してニュートラルな態度がとれるようになる。
そうなると、自分の中のモヤモヤも、軽くなるんですよね。
埋め合わせは、相手の損失を埋めるだけではなく、自分の中にある「心の欠損」を埋めて修復すること、なんですよね。
「切っていい関係」もある
「気持ちよく別れる」
冒頭で紹介した「こわれた関係のなおし方」で、目から鱗だったのが、相手との関係の終わらせ方でした。
相手の過去を責めず、和解をして、気持ちよく別れる。
自分に必要だったのはこれだ!と感じました。
私は発達の偏りがあり、どこか「変わった雰囲気」があるようで、子供のころから「変わった人」が寄ってくる傾向があり、自分からも変わった人に懐きに行っていました。
さらに、子供のころからの習慣づけで「嫌だ」と伝えることができず、結果、いいように利用されてしまい、ずるずると関係が続くこともありました。
十年くらい前からは「嫌だ」と言えるようになったのですが、私が都合のいい返事をしなくなったことで相手と言い合いになり、絶交になっている人が数人います。
彼らとは長い付き合いですので、どうしているのか気になります。
それに、自分は相当に変わった人間なので、その相手をしてくれる彼らを切ってしまったら、周囲に誰もいなくなるのではないか?という心細さもあり、モヤモヤした気分がいつもありました。
これ、きちんとお別れをしていないから、だったんですよね。
絶交をしたとしても、その人との関係は、心の中にあり続ける訳ですから。
人は一生成長(変化)する
私の友人たちは、以前と同様の「都合よく動いてくれる私」を望んでいます。
けれどもう、私は「そうではなくなった」んですよね。
私は時間経過と共に成長(変化)したのですが、彼らは以前と変わらないものを望んでいる。
これに答えることはできません。
私自身のバウンダリー(境界線)を守るためには、心細くても、彼らとは距離をとらなければならないのですよね。
「こわれた関係のなおし方」に、「許すこととは、怒りを消すことでも忘れることでもなく」「相手に傷つけられたにもかかわらず、その人に何かをあたえること」とあるのですが、これこそまさに埋め合わせだと感じました。
バウンダリーを越えて来ようとする(≒暴力的な)相手の中の弱さに気付き、和解のことばを伝える。
そして適切な距離を取る。
感情的に嫌いだから、ではなく、気持ちよく和解した上で、適切な距離を保つ。
お互いの存在を認められる、存在否定をしなくて良い関係、でいられる。
本当の気持ちをことばに出さない日本の文化の中で、どこまで使えるかはわかりませんが、こういう埋め合わせの方法がある、と知っているだけでも希望に繋がる、と強く思います。



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