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ひきこもりとカルトと優性思想と…。

Photo by Sarah Dorweiler on Unsplash雑記帳

先日、精神科医の斎藤環先生がTwitterで

「カルトに引っ掛かったひきこもりを見たことがない」

と書いていて、私のことかぃ、と、ちょっと笑ってしまいました。

ひきこもりになる人って、基本的に、人の集団に対して拒否感や不信感を持っているんですよねぇ。

なので、100%の所属を要求してくるカルト的な集団には、先ず馴染めないんですよね。

逆に、カルトに馴染みやすい人は、集団に認められたい・仲間にして欲しい、という気持ちが強いんでしょうね。

元々健康的な人間関係を維持できていた人が、何かの理由で孤立してしまった時が、カルトが入り込みやすい狙い目になるんだと思います。

集団に帰属できていた人が、突然孤立してしまったら、それは不安になりますから、どこかの集団へ帰属することへの欲求は高まります。

ひきこもりになる人は、そもそも集団から弾かれていたり、虐められていたりするので、うらやましくは思うものの、帰属への欲求は少ないんですよねぇ。


カルトとは言わないまでも、完全な帰属を求める集団って、結構多いですよね。

学校のクラスとか部活とか。意識高い系の職場とか。

私のようなタイプが、そういう場所に放り込まれると、あっという間に窒息死します。

そして、なぜか障害者雇用をしている職場も、100%の帰属を求める場所が多いように感じます。

障害者を雇う企業としては、たぶん、障害者は馬鹿で危なっかしいからガッチリ管理してやらなければダメだ、と思っているんだろうなぁ、と感じてしまいます。

管理・指導する対象としての障害者。

私は障害者就労を体験したことで、「人権って、何なんだろう」と、改めて考えることになってしまったんですよ。


上意下達で100%の管理を課す集団。

これ、カルトですよね。

カルトって、個人の自由や尊厳は一切認めない。

つまり人権無視なんですよ。

何でそんな事ができるのか。

「上位の人間が、下位の人間を100%管理する」という構造を目指しているから、ですよね。

100%の管理って、要するに「洗脳」です。

そして、上位のヒトが下位のヒトを「道具」として使える構造です。

道具には、意思も選択肢も無いんですよ。

これねぇ、頂点に君臨するのも神様などではなく、同等の「人間」だから、おかしなことになるんですよ。

(自称メシアも人間よね?)

人間が人間に君臨しようとするから、搾取になる。

「世界の被造物たる人間」という、素朴な宗教的感覚、自然に対する畏怖を失くしてしまうから、カルトが成立するんですよねぇ。

人間は決して「創造主」じゃないんですよ。

自然や世界を意のままに操るなんて、人間には出来ないんですよ。


かつての社会主義・共産主義国って、宗教を全面否定していました。

宗教は麻薬だ!って。

その結果として、ヒトが世界の全てを支配する、ヒトがヒトを支配する「独裁政治」が敷けたんですよね。

(で、国が崩壊する、というオマケ付き…)

で、今話題の統一教会と政治家の関係。

彼らは二次大戦後、反共という一点で協力関係にあったのだけれど、世情が変わってもそのまま持ちつ持たれつで関係し続けた結果が、この悲劇なのよね。

帰属意識の強い集団の組織票は、政治家にとっては大きな票田になるし、集団にとっては有名政治家が顔を出してくれれば、集団自体にハクが付きます。

両者がお互いに、活動・思想の中身を吟味しないで、単純に利益を上げる道具として利用し続けていただけ、なんだと思います。

…悲し過ぎますよ…。

で、反共を掲げる彼らのベースにあるのは、朱子学なのよね。

朱子学 - Wikipedia

当時の共産主義って、暴力を使ってでも従来の権威を覆そう、という方針だったから、先祖代々が構築した価値観を守りたい側としては、かなり怖いものだったと思いますよ。

似た価値観の者同士協力したい、と考えたのは自然なことかと思います。

朱子学的な先祖代々って、「忠臣は二君に事えず」的な主従関係を美しいと捉える感覚が、とても強いんですよね。

つまり、家父長制的な家族関係(社会全般の主従関係)を守りたい、という気持ちも強いのよね。

けれど実際問題として、かつての藩や農村のような地縁・血縁で固めたムラ社会は、資本主義経済が発展した国ではもう存在しないわけで。

だから疑似家族としての、権威ある国家とかカルト教団とかを目指したかったんじゃないかと思うんですよ。

その辺りの類似性のみで、中身まではよく考えず、協力関係を続けてしまった。

家父長制の大集団、つまり「権威・独裁」、彼らが嫌った社会主義国家と似た形になってしまうという…。

…皮肉なことですよねぇ…。

資本主義では、「陰腹切ってでも主君に進言仕る」なんて忠臣は、いないのが当たり前なんですよね。


結局、ヒト(自分)の能力を過大評価するあまりに、他者に対して操作的になってしまうんじゃないでしょうか。

世界(神、という言い方でもいい)の被造物たるヒトが、世界の外側に出て、世界を丸ごと操作する、なんてことは、どう頑張ったって出来ないんですよ。

せいぜい、「下々の皆さん」を道具扱いするくらいしか、出来ないんですよね。

けれど、十把ひとからげの道具だと思われている「下々の皆さん」は、それぞれに生きている個々の人間なんですよ。

権力を持つことで、ヒトの能力を過信することで、そこに気付けなくなってしまう怖さを、しっかり認識し直す必要が、誰にでもあるのだと思います。

で、ヒトの能力の過大評価って、優性思想ともつながっている感覚なんですよね。

優秀なヒトを掛け合わせ、さらに優秀なヒトを作ろうと考える、ヒト。

これ、世界の外側に出て、世界を丸ごと操作しようとするのと同じ、ですよね。

このナンセンスを本気にしてしまうのは、妄想の暴走です。

厨二病的です。

⇩みんながオタク化する理由を語ってくれています。


ひきこもりの私から見て、リア充、それどころか国家の真ん中ら辺にいる人たちの方が「厨二病」臭く感じてしまうんですよね。

世の中の全員がオタク化するのであれば、ひきこもりとリア充って、ネガとポジの関係なのだと思います。

世の中の中心に引きずり込まれないからこそ、ひきこもりなのだと。

優性思想的に言ったら、役立たずと思われているひきこもりの人は、真っ先に「処分」の対象になりますよね。

けれどこれ、処分して全滅させてしまったら、結果としてネガとポジのバランスが取れなくなると思うんですよ。

渦の中にいる人は、自分の状況を把握しにくいですよね。

渦の外側にいるからこそ、そこにいると危ないよ、と言うこともできます。

障害者とかマイノリティとか、脱出したカルト二世のような、世の中から疎外されている立場って、そういうバランスを取る存在なんだと思うんですよ。

だからどうか、辺縁からの声を聞いてください。

こんな悲劇は、もう嫌です。

多様性を上手く生きることが、人間の文化を存続させるより良いやり方なんだと感じますよ。




ブログ筆者  鈴木紗々夜  https://amzn.to/3MCIgqY
障害者就労で感じた無意識の差別、能力主義の不都合、制度の矛盾…等々…本人の体験から感じたこと、改善したいこと、これからの社会へ願うこと、などを書いています。ご興味がありましたら、どうぞご一読ください。よろしくお願いいたします。
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