自分のことを解ってほしい、自分と同じような感じ方をして欲しい。
これ、気持ちはとっても良くわかる。
誰だって、誰かと感情を共有したいよね。
だけどさぁ…
「オレの不機嫌を、お前がなだめろ」
「私の不機嫌の後始末は、あなたが責任を持って片付けなさい」
こういう感情の押し付けは、暴力と同じだよね。
もちろん、些細な目くばせから大声で威嚇するものまで、程度は様々なのだけれど、思わずコレをやってしまう人って、私も含めて結構多くいる。
この暴力的な感情って、とっても子供っぽい。
癇癪起こした子供が、自分の気持ちをことばにしたら、このセリフになると思う。
「アナタは全力で私に共感するべき立場なのに、それをしないとは何事? 怠慢も甚だしい! ワタシを傷つけたアナタの罪は重大だ。ワタシは大泣きという武力を行使して、徹底的に抗議する!」
…まぁ、ね。
赤んぼだったらかわいいし、要求するものもミルク程度だろうから、なだめる方もちょっと嬉しかったりするよね。
でもコレ、大の大人にやられたら、蔑みの感情しか生まれない。
不機嫌(多くの場合は怒り)の後始末を他人に丸投げする、というのは、「自分は無力な子供である」と言っているようなものなんだよね。
ある意味とてもみっともない。
共依存傾向のある人だと、そのみっともなさを逆手に取って、相手から「面倒を見てあげるべきカワイイ人」という感情を引き出し、自分に引き付ける手段に使ったりするのだけれど、そんな理由で形成される人間関係は当然病的だから、当然破綻する。
この感情の暴力が出てしまう人って、やっぱり精神的に未熟なんだよね。
共感できる相手がいることはとても嬉しいことなのだけれど、相手も自分も「別々の人」。
共感できないことがあるのが当然なのに、それが許せない。
自己と他者の境界がわかっていない。(犯罪傾向のある人にも多い傾向なんだよなぁ…)
何もできない幼児からだんだんと育っていく過程で、親が上手に離れて行けたら良かったのかもしれないけれど、それが上手くできていないから、本人はいつまでも幼児的感覚のままでいるのだろうと思うよ。
親のネグレクトだったり、過干渉だったりで、まともに育っていない人って、意外なほどたくさんいる。親自身が未熟な場合もとても多い。
この傾向が強い人にとっては、親や自分と共依存関係になってくれる人は、単なる自己延長の道具でしかないので、自分とは別の人格を持った人間だとは思っていない。
しかも、自分より力の弱い(立場の弱い)相手を狙って仕掛けてくる。(店員さんに悪態をつく客、とかね)
本当にタチが悪いんだよねぇ。
だけどさ、人間っていくつになっても精神的な成長ってできると思うんだよね。
体力のピークは20代前半であっても、人間的な深みは、それ以降にも育つワケで。
私には発達凸凹があって、平均的な人と比べて成長がとても遅かった。
20代の頃なんか、思い出すのも恥ずかしいくらい精神的に子供だった。
それでも今、過去を振り返ると、多少なりとも成長している自分を感じられる。
他者と比べて能力の低い私でもそう感じるのだから、凸凹の無い人だったら、もっとスムーズに成長できるのだろうと思う。
たぶん人間って、どんな人でも生きている限り、キッカケさえあれば成長できるんだと思うよ。
キッカケって、気付きだし、自己理解なんだと思う。
ブチ切れたくなる気持ちもわかるけれど、感情の後始末を他人に丸投げするのではなくて、たとえ不快でも、自分で自分の感情を理解してあげることが、成長にとってとても大切な要素なんだと思うよ。



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