引き続き、元・舞妓さんのお話からの考察です。
花街と一言で言っても、その成り立ちや性格は、場所によって違うんですよね。
大店の旦那衆(今で言う文化人)向けの界隈と、お参り(今で言う観光)で外部から来る旅行者向けの界隈、地元の労働者向けの界隈では、当然性格が違ってくるんですよね。
京都の模範的なお茶屋さんは、大店の旦那衆向けのお店を基本にしてるのでしょう。
ただ、花街ってやっぱり、基本は飲酒・遊興・性風俗なんですよね。
それでも、格式のある花街だと、芸妓と娼妓は「別」なんですよ。
芸妓は、歌舞音曲で、お座敷を盛り上げお客さんをもてなす役です。
娼妓は、同衾できる酌婦です。
けれども、これをきっちり分けることって、よほど大規模な商売ができるお店・街、もしくは現代の倫理観をしっかり持って営業している街でないと、無理なんですよね。
三業地には必ずそういう問題が付いて回ります。
芸妓(舞妓さんも今の感覚としてはこちら側でしょう)は、伝統の歌舞音曲を披露する、芸能に携わる人として、現代の感覚でも憧れを持てる職業、と見ることができます。
けれど、娼妓に関しては、現代の感覚では受け入れられない、できればなりたくない立場です。
娼妓を追い出せ、ということではなく、芸妓が娼妓を兼ねなければならない業態を変えられるかどうかが、文化として生き残れるかどうか、なのだと感じます。
(娼妓=売春を禁止したところで、ちょんの間など、そういう仕事をせざるを得ない人が必ず出てしまう、という社会構造自体がおかしいのですが…。)
舞妓さんは基本、未成年です。
遊郭で考えると、半玉(はんぎょく)、禿(かむろ)、のような存在ですよね。
お稚児さんのような、「まだこの世の者ではない」(異界の・神聖な、神に近い存在としての)子ども、という意味もあると思います。
そういう者に饗応してもらえる、というのは、「特別なチカラ」が移る、という意味でもあったと想像できます。
未成年=子どもであることに意味があるんですよね。
日本のロリコン文化って、そういうアニミズム的な感覚から来るものだと思うのですが、これ、現代の倫理観から考えたら、完全にアウトです。
けれど、現在も舞妓さんが十代から修行に入るのは、二十代前半に芸妓さんとして独り立ちできるように、という意味があるそうです。
⇩こちらの動画、良識ある置屋さん・お茶屋さんのシステムを、良識あるお客さんとしての実体験から、解りやすく語ってくれています。
この動画のような、良いお店と良いお客さんならば、良い文化を育てて行けると感じます。
けれども、十代の子にそういった過酷な生活をさせるのは、どうなのだろう、と考えてしまいます。
たとえば、体操やフィギュアスケートでも、選手として大会に参加できる年齢を引き上げようという動きがありますよね。
身体の軽い十代前半が、一番大技を習得しやすいそうですが、過度な練習(生活習慣)による負担が心身の成長に悪影響を及ぼすから、だそうですが、これって、舞妓さんやアイドル見習いなどと同様に「搾取」にもつながるから、ですよね。
たとえば、今現在、三十代の芸妓さんに対し「トウが立ちすぎている」と評する人って、いるのでしょうか。
二十歳前後から修行を始めたとしても、遅すぎることはないと思うのですが、どうなのでしょう。
「しきたりを仕込むには若い方がいい」というのは、単純に、反抗をさせないために無知に付け込む搾取でしょう。
まともな「しきたり」であるなら、大人になってからでも理解できるし、馴染めます。
借金のカタに売り飛ばされて来るわけではないのならば、中卒、遅くても高卒の歳でなければダメというのは、変な事に感じます。
東京近郊で、かつて三業地があった場所は、大体が廃れた町になっています。
(神楽坂などの、風情が再認識された地域は、少ないです。また、元芸妓さんの営むカフェなどは普通に入れますが、本物の「お座敷」は、依然として部外者とは縁の無い世界です。)
住宅地が増える中、風営法や倫理的問題がある上、お座敷遊び自体が今の普通の生活からは「ほど遠いもの」です。
もし、お座敷遊びを文化として残したいのであれば、現在の人が納得できる形にする必要があります。
京都は、舞妓さん・芸妓さん、お座敷遊びを観光の目玉として扱うのであれば、そこで働く女性の尊厳をしっかり守る責任があると思いますよ。



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