私は、障害者就労で上手くなじめず退職をしましたが、退職の原因の一つに、健常者が望む障害者を演じることが辛かった、という理由がありました。
世間で望まれる障害者は、常におとなしく従順で謙虚でなければならない。
この、世間的に望まれる障害者像を演じ続けるのは、本当に辛かったです。
現実では憚られて語れないことを言えるSNSなどでは、マジョリティに属せない障害者の本音が散見されますが、やはり、私が感じた事と似た辛さを抱えている人が、結構いるようです。
なぜ、無理をしてでも型にはまらなければ、世間は許してくれないのか。
これって、尊厳の剥奪(≒人権侵害)とも言えるんじゃないのか?
他人を型にはめたがる人は、何を考えているのか?
少し考えてみようと思います。
管理する者 vs 管理される者
「管理される者」とは?
この話題の中で「管理される者」は、障害者=下位者です。
まず、「障害者」って何なのか。
私が思うには、
最頻値に属する人々に合わせた行動がとれない人
の事、だと思います。
努力や習慣づけでは最頻値に合わせられない、医学的な病名や障害名とは別の問題、
「障害の社会モデルに当てはまる人」という意味だと思っています。
最頻値というのは、平均値ではなく、最も多くの人が属する値、という意味です。
もちろん、社会的な常識や当たり前とも別の基準です。
管理する側の「健常者」とは?
では、管理する側の者としての「健常者」とは、何なのか。
大雑把な言い方をすると、
障害の社会モデルに当てはまらない人
ですよね。
こちらに属する人の方が当然数は多いです。
たとえ個人の特性が最頻値から外れていても、最頻値に合わせた行動がとれる人は「健常者」に属します。
健常者に属する人は、「最頻値」に合わせることができる、というだけで、実際には障害者以上に多様な人々の集団なのだと感じます。
そして、最頻値は平均値ではありません。
ニュースなどで伝えられる平均年収の値に「普通そんなに儲るか???」と疑問を感じる人が多いように、「平均値」って、優秀な少数者が大幅に引き上げてしまうものなのですよね。
ここで問題なのは、世の中の「当たり前」って、最頻値ではなく「平均値」が基準になりやすい事、です。
なぜなら、世間のルールを作るような立場になる人は、とても優秀な人たちだから、です。
彼らが多少レベルを落とし、平均値に近づけた「当たり前のルール」を作ったとしても、最頻値の人たちにとってはハードルが高いことになってしまいます。
なので、大多数の最頻値にいる健常者は、かなりな努力をしなければ、自身の生活を「平均値」に近付けられないのですよね。
「最頻値を管理する者」と「最頻値の健常者」の乖離
最頻値にいる人たちは、ハードルの高い「平均」に合わせなければならなくなります。
これをずっと続けるのは、辛いですよね。
けれども、障害の社会モデルに当てはまらない人々は、頑張れば高いハードルにも合わせることができます。
ココがミソなのではないかと思ってしまうのですよ。
最頻値に属する健常者は、異様に頑張って「平均値」を演じている。
とりあえず演じられてしまうから、優秀な少数者は「頑張らせれば大丈夫だろう」と捉えてしまう。
管理する立場とすれば、型にはまって粒の揃ったものほど管理しやすいから、多少無理があっても「平均に合わせた基準」のままにしてしまう。
優秀な人はどこまでも優秀だから、「大丈夫じゃない無理な頑張り」が、実感としては解らないのかも知れません。
本来ならば、大丈夫ではない健常者が、「これ以上頑張るのは無理」と訴えなければならないのだと思います。
けれども、それを表明してしまうと、不適合者と認定されてしまうし、そもそも訴える文化がありません。
不適合者はマジョリティから追い出され、マイノリティ≒社会的障害者に格下げ、となってしまいます。
今まで馴染んでいた集団から排除されるのは、とても恐ろしいことです。
結局、障害者を型にはめたがる健常者も、無理に型にはめられている。
平均値という型に、無理にでもはまらなくてはならない、と思い込んでいるのですよね。
そして、障害者は「努力を怠った、自己責任で脱落した」、怠け者と見下していいやつら、となってしまいます。
格下は全てにおいて劣っていなければならない
「努力をしなくてよい」免罪符
世の中では、「能力が低い」のではなく、「能力が欠如している」ことが、唯一の努力をしなくてもいい免罪符になります。
努力をしなくていい、ということは、合目的的集団からの排除という意味でもあります。
例えば、支援学級の生徒が普通級の行事に参加する場合は、お客さんとしての参加であって、クラス内での役割分担は求められません。
(一般企業の障害者枠での雇用も、現状は似たようなもの、です。)
役割分担ができない=みんなでやるべき目的に合わせた協力ができない
=合目的的集団の中では不要な存在
つまり、いないのと同じだから努力しなくていい、なんですよね。
現に存在しているのに、目の前の集団から、存在しないものとして扱われる。
この恐怖と屈辱は、尋常でなく耐え難いものです。
だから多くの人は、努力をして平均値に合わせられるならば、どんな無理をしてでも合わせたほうがマシだ、と考えるのでしょう。
免罪符の対価としての「蔑み」
「理想の平均値」以下の健常者は、マジョリティから追い出されないために、血反吐を吐くような努力を、どんなに嫌でもしなければならない。
障害者は、その努力をしなくてよい身分だ。
なぜなら能力が欠如しているから、努力をしたところで無駄だから。
障害者は、何をさせても、全てにおいて、劣った存在だ。
これまでの話をまとめると、こういう論理になると思います。
実際、何らかの障害があると、一律に「子供のような扱い」を受けます。
一律に「小学生程度の知能」と思われてしまうのですよね。
「努力という苦役から逃れているのだから、全てにおいて劣っているべきだ」というのが、世間の持つ「障害者のあるべき姿」なんですよ。
しかし、障害者って本当に「努力を免れている」のでしょうか?
そして、ほとんどの健常者が感じているであろう「血反吐を吐くような努力」って、本当に必要なことなのでしょうか?
どんな人であれ、個人に備わった能力の限界はあります。
努力って、その限界内でできることの幅や深さを広げることで、限界を超えることではないはずです。
適切な努力ならば誰でも報われますし、不適切な努力を続ければ誰でも精神を病むのではないでしょうか。
自己責任の及ぶ範囲と、それを越えた範囲、この両者の区別をすることと同じ感覚ではないでしょうか。
マジョリティって、何なんだ?
本来ならば「最頻値」が「マジョリティ」
最頻値に属する人が、追い出されないように汲々としている「マジョリティ=普通の人」は、「理想像」であって、実際のマジョリティ=最頻値ではありません。
「普通の人とはこうであるべきだ」、という「べき論」でできた想像ですよね。
その想像は、どこから来るのか。
たぶん、子供の頃から言われ続けた「普通の家・普通の子が一番良い」ということばが、「それこそが正しい」という価値観になってしまうのではないかと思います。
(サザエさん一家こそが正義、とでも言うような。磯野家は今見ると結構な名家です。)
ここで言う「普通」は、実際の自分の生活よりも「少し上」を指すんですよね。
テレビドラマに出て来る「普通の家」が、庶民的では無いのと同じです。
つまり、普通であるためには、常に向上しなければならないんですよ。
しかし、どんな人にも能力の限界があります。
能力の限界を越えてまで「努力しなければならない」のは、それこそ無意味な強迫観念ですよね。
本来の自分とは違う者を演じるのは、誰だって辛い
NHKのクローズアップ現代で、アスリートのメンタル問題を扱っていました。
アスリートは真剣に競技に励むからこそ、「アスリートは○○でなければならない」という世間の目や自分の意識に追い詰められてしまう。

これを見て、この問題はアスリートだけの話ではない、と感じました。
アスリートと障害者を一緒にするな、と言われてしまいそうですが、マジョリティと言われる人も同様なのではないか、と思います。
ある集団の中で、「○○であるべきだ、そうでなければ存在意義は無い」という圧力が掛かるのは、本当に恐ろしいことだ、と思います。
「理想の平均像であるべきだ、そうでなければマジョリティとして認めない」
この意識でストレスを溜めている「普通の人」は、一体どれぐらいいるのでしょう。
そして、自身にストレスがあればこそ、他人が少しでも基準から外れるのが許せず、憎悪表現や見下しをする。
世間的に考える「普通・正しさ・当たり前」という枠組みは、暴力にもなりえるんですよね。
一般健常者然り、雇用された障害者然り、「○○でなければ、ここに存在してはならない」という括りに苦しむ必要など、本来ならば無いはずです。
人間は元々、一人ひとりバラバラなのですから。
帰属集団の枠組みに入らない「個人の部分」は、誰にでもあるのが当然です。
「基準外」の他人の部分を見つけて非難するのは、あまりにも非理性的です。
けれども、非理性的であることを理解するには、教養が不可欠なんですよねぇ。
できないヤツには教えなくていい、実生活に関わらない教養など不要、と言う人は、未だにいますが、文化の背景を考える力=教養は、生きる上でとても大切な能力です。
成果に直結する技術を学ぶことも大切ですが、人間は多様であることを理解できる教養を、全ての人が身に着けられる機会を得られれば、今よりもっと生きやすい世界になるのでしょうね。
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