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尊厳を失くすと、ヒトってタタリガミになっちゃうんだよ!?

願うこと

私は人間関係の構築がヘタクソで、何かとトラブルに遭うことが多いです。

その中でも、特に「こりゃ、イカン」と感じるのは、尊厳を失くしてしまった人たちの言動なんですよね。

尊厳を奪われた人・自ら投げ出した人が、怒りや妬みの感情をダダモレにして周囲をベタベタに腐らせてしてしまう、タタリガミと化した現場を、いくつか体験してきました。

(⇧表現としてちょっとナンだとは思うけど、まさにこんな感じなんですよ)

あまり具体的な例を挙げるとエグくなるので、ちょっと抽象的に、タタリガミ現象の背景とその対策を考えてみようと思います。

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「価値あるヒト」という基準をどこに求めるか

タタリガミ化するヒトは、大抵「私を見下した、私のことを無価値と断じたオマエらを許さない」と思っている、と思うのです。

まず、この「価値」とは一体何なのか。

この「価値の有る・無し」って、要するに「役に立つか立たないか」という意味ですよね。

「役に立つ」って何なのか、というと、人の集団の中で周囲の人に利益をもたらす行為ができ、結果として周囲から褒めてもらえる、という意味でしょう。

つまり、役に立つ行為=対価がもらえる労働が可能かどうか、が、ヒトとしての価値に直結してしまっているんですよね。

私としては、この価値観自体に了見の狭さを感じてしまいます。

まず、労働って何なのか。

ある目的をもった人の集団の中で、目的を達するために作業を複数人で分けて行い、その結果得た利益を作業の程度に合わせて分配すること、ですよね。

作業を頼む人も頼まれる人も、双方が得をするのが前提です。

ところが、この集団の中で力関係が不均衡になってくると、弱い立場の者は損をしても集団から排除されるよりはマシ、となり、サービス(≒媚びへつらい)をしなければならなくなる。

強い立場の者には、使えないヤツのために苦労して仕事を取ってきてやってるんだ、という意識が芽生え、どちらにも「自分が損をしている」という気持ちが出てきてしまう。

世間の感覚としての労働って、「お互いにとって利益になることをしよう」ではなくて、「お前のせいで損をしてるのだから、その埋め合わせを、お前が苦労してやるのが当たり前だろ」、という意味になってしまうんですよね。

自主的な参加ではなくて、強制労働に近い感覚になってしまいます。

この感覚が、ヒトとしての価値のあるなしを測る基準になってしまっている、と感じます。

けれども対価を得るための労働って、あくまでも「合目的的集団」の中で行われること、なんですよね。

本来ヒトの集団って、自然発生的なもので、目的は特にないのが普通です。

たまたまそこに、存在しちゃってるだけ、です。

自然発生の集団に、無理に目的を作ったら、合意できない個体が出てくるのは当然です。

合意できない目的に対し強制的に参加させられれば、「なんでこんな事をやらなきゃいけないんだ」と不満を持ってしまう。

そう感じる人、結構多いと思います。

それでも人間の社会って、目的達成のためにみんなで協力するのが善である、という価値観を持ちやすいんですよね。

というより、目的の無い集団には居心地の悪さを感じる人の方が多いのではないでしょうか。

目的が無い=自分のポジションがわからない、わけですから。

…これねぇ、たぶん、子供の頃から役割を分担させられ「そのように」しつけられてきたから、なんだと思います。

役割が果たせれば「いい子」、役割が果たせなければ「悪い子」。

役に立つ労働ができる能力こそが人間としての価値だ、というのは、どこまでも教育の産物、人為的な方便なんだと思うんですよ。

褒美や対価、承認を出すのは「人間」なんですから。

「人間に飼いならされたヒト」ではなくて、「自然の被造物たるヒト」としての価値は、労働うんぬんとは全く関係なく、存在することそのものなんだと思うんですよ。

合目的的集団から無価値呼ばわりされたら、その集団から抜けてしまえばいい、と思ってしまうんですよね。

自然発生的に存在することは、誰でもできますから。

労働力としての能力、なんて基準でヒトの価値を測るのは、病的な視野狭窄にしか見えません。

感情的暴力(=欲望)を受け止めてあげるのは、労働じゃない

労働って、お互いに納得した目的を果たすために作業分担して、得た結果を作業に応じて分配すること、です。

かつて私は実家で、家賃を支払う代わりに罵られてあげる、ということをやっていましたが、コレはどう見ても「労働」じゃないですよね。

一見「罵られる」という「役割」を分担して対価を得ているように見えますが、「傷つけさせてあげる」ことは「お互いの目的に達するための作業」ではないです。

タダで住まわせてあげる代わりに、怒りをぶつけるサンドバッグになれ、って、サンドバッグはヒトではなくて単なる肉塊です。

ヒトではないのに労働するのは、牛馬=家畜です。

人間って、家畜のふりに徹して生きる、なんてことは出来ないんですよ。

他に住む場所が得られる方法が見つかれば、サッサと出て行きます。

他に方法が見つからなくて、仕方なくそこに居続けていただけで、生きる術として納得していたわけじゃありません。

メンタルが痛んでいたとしても、尊厳を認められない状況というのは、耐えられるものじゃないんですよ。

対価を払ってヒトの生身に欲望をぶつける、と言う行為は、単純に「人身売買」と同じです。

少し大げさな話になりますが、売買春がその一番わかりやすい例です。

よく、風俗営業を擁護する人たちが、職業に貴賤はない、などと言いますが、人としての尊厳が認められない状態にあるものを「職業」とは呼べません。

生身を売るって、臓器売買と同じで、労働なんかじゃないですよね。

フーゾク嬢にメンヘラが多いのはある意味当たり前で、個人として守るべき境界線(バウンダリー)を、好きでもない客に侵害させることで、糊口をしのいでいるのですから。

買う側は、他者のバウンダリーを侵害することで、性欲と支配欲、承認欲求も満たされる、と感じるのかもしれませんが、他者を尊厳のある人として扱えないということは、自身の尊厳も放棄している、と証明してしまうことになるんですよねぇ。

尊厳って、他者との関係の中で、鏡合わせにして初めて見えるものなんですよ。

…この恐ろしさ、解りますか?…。

この、尊厳を放棄する売買春を、労働やビジネスと同等に捉えるから、パワハラ・モラハラを当然とする土壌ができてしまうんですよね。

人身売買はビジネスとは呼べない、ですよね?

サービス残業や奴隷労働も、ビジネスじゃないですよね?

同様に、お客様も上司も本社も、仕事をくれる人の集団であって、神様じゃないです。

お客様の罵詈雑言を受けるような「感情労働」は、個人のバウンダリーへの侵襲ですから、売春と一緒で労働じゃないです。(罵詈雑言って単なる暴力よね)

働く人、人間を大切に思うなら、この区別はハッキリさせないとダメですよね。

そして、無茶な感情労働(感情搾取)の成れの果てが、タタリガミ化したヒト=尊厳を投げ捨てたヒトなんだと思います。

「芸能」というエンタメを表現する職業は、フーゾクではない

ネット上にいるタタリガミ化したヒトって、よく、有名人や芸能人に呪いを吐いていますよね。

有名人・芸能人には、汚い感情をぶつけていい、となぜか思っているんですよ。

芸能というのは、やっぱり特殊な仕事で、フィクションとしての恋愛対象であったりします。

フィクションとしての恋愛対象、エンタメって、立ち位置がフーゾクと似ているんですよね。

しかし、フーゾクは実際に「生身を侵襲させる」けれど、芸能はあくまでもフィクション、エンターテイメントとしてギリギリの所を「魅せる」仕事なんですよ。

「生身を侵襲させること」と「魅せること」は、大きく異なります。

フィクションとしての表現が、観客の感情を揺さぶるのですが、観客は個人ではありません。

観客の一人が、感情への侵襲を許した上で、それを自分個人への攻撃と捉えるのは、単なる自意識過剰です。

しかし、この差をわざと曖昧にすることで耳目を引き付ける「演出方法」もあり、作り手・受け手双方に倫理観とリテラシーが必要となるんですよね。

そのリテラシーが機能しないことで、タタリガミ化するヒトが出てくるのでしょうねぇ。

芸能人・有名人には侵襲を加えていい、尊厳などないんだ、と捉えてしまうヒトが出てくる。

これは、とても怖いことです。

最近やっと、法規制が出来てきましたが、法律で罰せられるから、ではなく、「この人には尊厳など無いから、侵襲していいのだ」と捉えることの恐ろしさを、実感できるようにしてほしい、と思います。

そして、数少ないプラスの意味での感情労働である、エンターテイメント・芸能に関わる人たちの尊厳を守れるかどうかが、人の尊厳を守れる社会になれるかどうか、の違いになるのだと思います。

一般的な労働は、エンタメと切り離そうよ

今、フツーのお店でもなんでも、何かとエンタメ性を求められますよね。

お客様を楽しませなくてはダメだ、って。

だけど、エンタメって誰にでもできるようなチョロいものじゃないと思うんですよ。

愛想の良さはエンタメとは違うし、芸能って上記のように、本来は微妙でとても難しい立ち位置にあるんですよね。

それを素人にやらせるのは無理がある、と思うんですよ。

芸能関係の人たちって、魅せることに特化して努力を重ねるから、彼らの輝きが素敵に見えるわけですよね。

才能があるからこそ「芸能」なわけで。

フツーの人としては、魅せる以前にフツーのことをこまごまこなすだけで手一杯なんですよ。

フツーの人にエンタメ並みのおもてなしを求められても、それは無理、なんですよねぇ。

だけど、意識高い系ビジネス好きの人たちが「エンタメ性を持つのが一流だ」と喧伝するから、お客さんが勘違いして、とんでもないサービスを求めてきたりする。

それでお客さんと働く人の双方が不満を溜め込むんじゃ、双方の損失でしかないですよね。

双方が得しないんじゃ、ビジネスとして失敗なんじゃないの? と嫌味を言いたくなってしまいます。

過剰なサービスを求めるのって、何にでもエンタメ性を求め過ぎているから、なんだと思うんですよ。

日常のお買い物が楽しいのは嬉しいけれど、過剰に喜ばしてくれなくていい、エンタメまでは求めていない、ですよねぇ。(客だって疲れますって)

また、職場で嫌な目にあった人が、他の店に行ってクレーマーやっているんじゃ、負の連鎖でしかないですよね。

エンタメを求める場所とそうでない場所、しっかり分けて考えましょうよ。

パリピでなくてはならない、人生はエンタメでなくてはならない、というヘンな強迫観念は持たなくていい、とつくづく感じますよ。

感情的暴力を使うと、尊厳を投げ捨てたことになる⇒自分が腐りだす

自分がタタリガミ化しないためには、どうしたらいいか。

感情的な暴力を使わないことが一番なんじゃないかと思います。

感情的な暴力って、それを向けられた人のバウンダリーを破壊してしまいます。

相手の尊厳の破壊、いうなれば魂の殺人になってしまうんですよね。

暴力って、使いだすと止まらなくなる傾向があります。

他人の尊厳を平気で破壊する人に、尊厳なんて見いだせないですよね。

つまり、自分で自分の尊厳を投げ捨てちゃっているんですよ。

そうなるともう、腐ったみかん状態。

暴力的な感情が、周囲にダダモレになっていく。

本人も周囲も、ぐちゃぐちゃと腐っていくばかり…。

人としての尊厳って、自分を守るにも、他人を守るにも、とても大切なものなんですよ。

尊厳を他人から奪うことも、自分から投げ捨てることも、絶対にやったらダメなのよね。

自戒として、こう思っておくだけでも、良くない人間関係に巻き込まれ難くなるし、自分の言動にも気を付けるようになれる、と思いますよ。




ブログ筆者  鈴木紗々夜  https://amzn.to/3MCIgqY
障害者就労で感じた無意識の差別、能力主義の不都合、制度の矛盾…等々…本人の体験から感じたこと、改善したいこと、これからの社会へ願うこと、などを書いています。ご興味がありましたら、どうぞご一読ください。よろしくお願いいたします。
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