極端な事を言って笑いをとる、ってありますよね。
コレって、「それはフツーありえないでしょ!」という「ありえなさの誇張」がオカシイから笑うんですよ。
けれど、この「ありえないほど誇張された極論」で周囲が笑ってくれたことを「自分の極論が受け入れられた」=「この極論は正しい事だ」と捉えてしまう人が結構いるんですよね…。
そういう「現実の取り違え」がどうして起きるのか、私自身の失敗を反省しつつ考えよう、と思います。
おゲレツな冗談が好きなんです ^ ^;
私、子どもの頃からおゲレツな話が好きで、マジでゲラゲラ笑ってしまうんですよ。
いわゆる教育上よろしくないと言われるような少年マンガ系とか、あからさまなオヤジギャグとか、大好物です。^ ^;
これ、たぶん、いわゆる「笑いのツボ」の位置の問題だと思うんですよね。
この「ツボ位置」は趣味・嗜好と同じで、人によって違っていて、ツボがずれると何が面白いのか全くわからない、となるのだと思います。(逆に、ツボに刺さると腹筋が攣る程に笑ってしまう、という…)
これは生まれ持った体質と似たようなモノで、少しづつ慣らしていけば多少は変えられるにせよ、全く別の場所に動かすことはできないモノ、という気がします。
でね。私のツボは、どうも品性下劣な場所にあるようなんですよ。
なので、品の良い人たちが眉を顰めるような話題で、マジで爆笑してしまう、という…。
そういう性格プラス酒好きなことや、仕事柄もあって、私は20代の頃から「職人系ガラッパチのおいちゃんたち」に可愛がってもらっていました。
たぶんおいちゃんたちからすると、色気の無い子どもに見える私は、気楽に連れ歩ける「ボーズ」のような感じだったんだと思います。
あの頃は大変お世話になり、ありがとうございました。<(_ _)>
そういう環境にいても、それなりのお年頃で、そのうちおいちゃんではないカレシ、なんてものも出来たりしたんですよ。
で、そのカレシもおゲレツな下ネタ系を連発する人で、「冗談の質」としては、すごく気が合っていた、と思っていました。
しかし、ですよ。
彼はそういう話題を、冗談として言っているわけではなかった。。。
最初は気が付かなかったんですよ。しょーもない冗談だと思っていたので。
けれど彼は、ソレが普通で当たり前な事、世の中の道理、だと思っていたんですよね…。
例えば、隣家の女性の部屋を覗き見る、とか。
きれいなお姉さんが気になってしかたないことを、「下半身で行動してしまうしょーもない自分」という一種の自虐ギャグとして言っているだけならともかく、本当にそういうことをしたらフツーにOUT!犯罪ですよね。
なので彼がそのしぐさを本当にしようとした時、私は本気で「ダメだよそれは!」と止めたのですが、彼は憮然として「男に気にされるのは女にとって嬉しいはずだ、彼女は喜んでいるはずだ」と…。
!(( ゚Д゚))!!イヤイヤイヤイヤ何だそれ!!!!!
まぢでびっくりした。
他にも、「オンナは身体売って金がもらえた上に、気持ちよくなれて、ズルいよなぁ」とか…。まぁ、多種多様にありましたが…(具体的な話は憚られますので…)。
とにかく、本気でそう信じ込んでいるんですよ…。
AVなんかの中での表現が「現実だ」と思い込んでしまうような世界で生きている人が、実際にいる、というこの現状…。
「ごっこ遊び」と「現実を生きる事」の区別が付いてない。
本気で「教育の不備の怖さ」を感じました。
ミソジニーの元としての「万能なる母」の幻想
その後、その彼とはすったもんだの挙句、縁が切れているのですが、色々考えることがあるんですよ。
何で「自分の欲望のままに行動しても許してもらえる」と思い込んでいるのか…。
私がくだらない話で楽しく笑っていたことで、彼のそういう性質を増強させてしまったんじゃないのか…。
などなど。
私は自分でも自他分離が上手くできていない自覚があるのですが、彼もそういう人だったんですよね。
コレって結局、「他人という、自分と同等の生きて痛みを感じる、他の人間が存在していること」が、ちゃんと理解できていなかったんですよね。
(私も自覚を持ってわかってはいなかった、です。)
ここにすごく感じるのは「お母さんとの関係性」なんですよ。
オレちゃんにとって、万能なるおっぱいであるべき母親は、オレちゃんに奉仕するべき宇宙の全てであり、オレちゃんはその宇宙全ての支配者としてこの世に生まれたのだ。
フロイト的な言い方をすると去勢されていないと言うのか、そういう感じをすごく受けるんですよ。
でもねぇ、どんなに偉大なる母であったとしても、愛されるべき赤ちゃんだった人だとしても、どちらも当然「大勢いるうちの一人の人間」でしかないんですよねぇ。
なんでそこに気が付かないのか…。
オレちゃんとしては「母は万能であるべきだ」と思い込んでいるけれど、それは幻想でしかないので、その思いは当然「裏切られる」わけですよね。
裏切られた宇宙の支配者は、一転して母≒女を「役に立たない、劣った存在」「オレちゃんが使うべき単なる道具」と見做しだすワケで…。
そしてオレちゃんは、傍若無人な赤ちゃんのまま育つことを止めてしまう…。
ミソジニーって、ある意味、「母に裏切られたという逆恨み」なんだと感じるんですよ。
もちろん、まだ生きる能力がない赤ちゃんにとっては、母は万能なる宇宙の全て、ですよ。
母に依存しなければ生きられないのですから。
…だけど、なんでその後いつまでも「一人の人間」として分離できないのか…。
「万能なる母」という幻想が大きすぎて、目隠しになってしまって、現実に気付けないんじゃないか、と思うのですよ。
気付きがなければ成長もできないですから。
世間的にも「母の偉大さ」を吹聴しすぎるから、気付くきっかけが余計見つからなくなるんじゃないか、とも感じます。
結果、万能なる母という幻想の付属物と化してしまったオレちゃんは、いつまでも「一人の人間」になれない、という…。
(男性に限らず、女性にもこういうタイプの子いますよね。)
「創作物」と「現実」の区別ができない
「幻想」って、当然「頭の中で考えた創作物」であって現実ではないです。
AVって、要するに母子分離できない少年のムチャクチャな妄想を、実際の俳優を使って映像化したモノ、ですよね?
それでも、「妄想」を「演技」しているだけならいいのかも知れません。
でも実際は、、、、演技とは到底言えない「身体の張り方」を女優にさせて、それを映像化してしまう。
幻想の付属物になってしまっている人がソレを見たら、当然のように現実との違いがわからなくなるワケで。
作る側も見る側も、どんどん妄想と現実の区別がつかなくなっていく…。
俗に18禁なんて言うけれど、年齢で成長は測れないんですよ。
創作物と現実の区別がつかない大人は、いくらでもいるんですよね。
エロ・グロと笑い
「笑い」って、緊張を弛緩させるモノなのだそうです。
「いないいない・ばぁ」で赤ちゃんが笑うのも、お母さんがいなくなった緊張を「ウソだよ~ん」と弛緩させるから、笑うんですよね。
「ウソだよ~ん」じゃなかったら、笑えないんですよ。
エログロナンセンスは娯楽の基本なんだけれど、これも「ウソだよ~ん」だからこそ「楽しめる」わけで、本物のエログロじゃ、単純に悲惨なだけで娯楽にならないです。
今現在の文化では、ローマの剣闘士のような本物の殺し合いを娯楽として楽しめるような野蛮さは、持ち合わせていません。
人間の文化がだんだんと野蛮ではなくなってくる理由は、文化が広く行き渡ることで大勢の人が「他人は自分と同様の一人の人間だ」と気付くから、ですよね。
でね、怖い話になりますが「自傷行為」というのも「緊張と弛緩」なんですよ。
食べ吐きもリストカットも、緊張状態からの解放のためにやるんですよねぇ。
性的逸脱や売春行為というのも自傷行為の一種だと、私は思っています。
妄想に囚われてしまう恐怖・緊張から解放されるために、自身に苦痛・強い刺激を与えて「自分に戻る」。
これをやっている最中の人は、当然「好きでやっている」と言います。
この刺激がなかったら「自分に戻れない」、つまり狂うか死ぬかしてしまう、と感じているから、です。
でも、自傷行為に依存する、って、「命にかかわる病気」なんですよ。
演技とは到底言えない行為をするAVや性風俗って、他人の病気(生命にかかわる自傷行為)を娯楽として消費している、と思うんですよ。
なので「本人が好きでやっていると言ってるから良いんだ」、というのは、倫理としてダメなことです。
ローマの剣闘士だって、生きる道が他に無いからやらせてくれ、と言いますよね。
それを平気でやらせていたのは、奴隷は自分と同様の人間ではない、という思い込みがあったから、ですよ。
私、前述のようにエログロナンセンス大好きです。
でもそれは「創作物」「ウソだよ~ん」だから楽しめるんですよ。
笑っているからといって、現実のエログロを喜んでいるわけではない。本当に消えてしまうお母さんを見て、赤ちゃんは笑ったりしない。
それぐらいわかるだろ? と思う「私の常識」が通用しない場所って、あるんですよね。
「笑う」って、冗談を面白がって笑う、相手を受け入れているよという感情の現れとして笑う、恐怖を紛らわせるために笑う、相手の機嫌をとるために笑う、等々…いろいろな意味がありますが、基本的には緊張とペアなんですよね。
それを単純に「笑ってくれた=自分を受け入れてくれた」とだけ捉えてしまうのは、視野の狭さや文脈を読む力の乏しさから来る「取り違え」なんだと思います。
この力の乏しさは結局、創作物と現実を区別する力の乏しさにもつながるんですよね。
そして、創作物と現実の区別が付かない人が増えることで、極端な創作物を楽しんではいけないんじゃないか、という風潮ができてしまいます。
(ガキ使なんかのおゲレツ表現なんか、大好きだったのに、TV的にダメになってしまったり…)
これ、文化がやせ細る原因にもなるんじゃないか、と感じます。
「額縁」が大事、なんだって。
以前、何かの本を読んでいて、「劇場や教会の建物が立派なのは、想像の世界を現実から分ける額縁だから」というようなことが書かれていて、なるほど!と思ったことがありました。
額縁の内側は「絵」です、と、現実と混同したり錯覚を起こしたりしないように、しっかり分けてある、と。
額縁は立派なほど、絵と現実の錯覚は起こりにくくなります。
劇場や教会の中で行われることは、現実のエッセンスは含まれているにしても、それを想像でデフォルメさせた「創作物」ですもんね。
豪華な建築物は、そこで味わう非日常を演出する、素晴らしい装置です。
芸術とは世界のミメーシス(雛型=模型)なんだそうです。
現実ではなく、あくまでも「模型」。
宗教も、イデオロギーも、そうですよね。
そことエログロナンセンスを一緒に語るな!と言われてしまいそうですが、本質としては一緒ですよねぇ…?
創作物は創作物として、現実とは違う「頭の中だけでのこと」と理解して楽しめることが、一種の教養なのかも知れません。
教養って、文化を味わう中で培っていくモノなので、文化自体がやせ細ってしまったら、教養もやせ細ります。
教養がやせ細れば、単なる野蛮人に成り下がってしまいます。
創作物と現実の切り分け、って、自他の切り分けと感覚的に似ているかも知れません。
恋愛に過度にのめり込むと、自他の区別が付かなくなりがちです。
それと似た感覚で、創作物に感情移入をしたり、実在するけれど実際の知り合いではない「推し」に入れ込んだりするのも、自他の区別が曖昧になる快感があります。
他人と境目なく溶け合う、って、人類共通の快感なんだと思います。
この感覚の根源って、最初の他人である母親とのアタッチメント(愛着形成)、母との一体感の形に倣っているんだと思うんですよ。
だから愛着形成が上手くできなかった人は、人間関係に問題が起きやすいし、母子分離が上手くいかない原因にもなる…。
結局は、母子が安全でいられる環境が得られにくい、子を持った母を取り巻く人間関係の貧しさ、の問題なのかと感じます。
母子が安全でいられないのは、野蛮な冗談を真に受けて現実に実行してしまう人が少なからずいるからで、そういう人を減らすには豊な文化が必要で、豊な文化を作るには現実と創作の区別が必要で…
…と、堂々巡りになります、ネ…。
私も含めて、育ち方が上手くいかなかったのはもうしょうがないとして、それでも、今からでも少しづつでも、自分自身を育てていくしかない、んですよねぇ…。



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