福祉的支援を受けて生活する人のことを「ズルい」と表現する人が、意外と多くいます。
私には発達の凸凹と、その二次障害らしき鬱状態があります。
ぱっと見では障害があるようには見えないらしいのですが、実際に雇われて働くだけの能力は無く、今は障害年金と預金の切り崩しで生活しています。
障害者手帳も持っています。
障害者手帳を持っていると、バス運賃や公共施設の利用料が割引になったりします。
その料金のことや、年金のことで、「ズルい」と言われることが、ときどきあります。
これ、私のような立場や生活保護受給の人が、ときどき言われることなのですが、どうも腑に落ちません。
果たして本当に「ズルい」のか?
少し考察してみようと思います。
「ズルい」とは何なのか?
「ズルい」というのは、狡猾、悪賢いことですが、もっと単純に、子供が「ズルーい!」と言う時のことを考えると、羨み・妬みの感情だろうと思えます。
しかし、実際に大人が使う場合は、どうもそれだけではない感じがします。
悪賢く福祉支援を受けたら詐欺になりますので、犯罪になってしまい、ズルいどころではなくなります。
妬ましいというのは、自分よりも優れた能力などを持った人に対して羨ましく感じ、自分が惨めに思えるから相手を貶めてやりたい、と思う感情なのだろうと思います。
どちらも生活困窮者を指すには、意味として変です。
福祉支援を受ける人は全員詐欺師だ、とまで思う人は、少し特殊な事情がある場合だと思いますので、ここでは省きます。
では、羨ましい・妬ましい、というのはどうなのでしょうか。
羨ましい・妬ましいと感じる対象は、自分との比較対象となる範囲にいる人に限って、なのだと思います。
自分とあまりにもかけ離れた人、例えば、オリンピック金メダル選手に対して妬ましいとは感じないでしょう。
一方、私などが言われる「ズルい」は、羨ましいから妬ましいと思われている訳ではありません。
健康に恵まれ、働くことができ、生活の自立ができている人を、私が羨ましいと思うのならまだしも、その逆は考えにくいです。
どう見ても私の方が劣った立場なのですから。
では、何が「ズルい」のか?
たぶん、汗水たらして労働している訳ではないのに、金銭的サポートを得ているから、なのだと思います。
「我々が払った税金から、コイツらの生活費が出ている」
これもよく、ネット上などで見かけることばです。
しかし、彼らはいったい年間にいくら税金を納めているのか。
その内の何%が社会保障費に充てられているのか。
今生きている人は皆、社会的インフラから恩恵を受けています。
自身が受ける恩恵と支払うお金の割合は、相当の高額納税者以外は受ける恩恵の方が多いはずです。
それに、消費税は買い物をする人ならば誰でも納めているのですが、税から支出されたものが税に還元される分は、どうなのでしょう。
彼らは、元々の土地持ちで、働かなくても家賃収入だけで生活ができる人のことを「ズルい」とは言いません。
高額納税者だから、ではなくて、自分との比較対象範囲では無いから、です。
では、庶民的な生活をする健常者にとって、障害者は「比較対象範囲内」なのでしょうか。
…たぶん、自分よりも絶対的に劣っていなければならない相手、惨めに見えなければいけない相手、なのだろうと思います。
自分は働いているのに、劣っていなければならない相手が苦労せずに生活しているように見えることが、「ズルい」と感じるのではないでしょうか。
不労所得で生活しているように見えることが、「出し抜かれた」ように見えるのかもしれません。
「働けない」=「優雅」なのか?
働かずに生活をすることが「優雅」に見える、という感覚はあると思います。
昔の大店のご隠居さんのような感覚ですよね。
しかし、「働かずに生活できること」と「働けないこと」には雲泥の差があることを見落としていると感じます。
働かずに生計を立てられる状態は、一般的な労働以外の「生業」がある、社会的に認められる身分がある、という意味になります。
働けないというのは、単なる無職、です。
職が無い、という状態は社会的承認が得られない状態でもあります。
たぶん引きこもり経験者にはわかると思うのですが、会社なり学校なりの社会的な帰属場所が無い、という焦燥感は、相当に辛いものです。
そんな辛い状況が、なぜ「ズル」く、「出し抜いた」ように見えるのでしょうか。
もしかすると、自助努力・自己責任の呪いなのかも知れません。
自助努力により能力を高め、マトモな職に就くのが当たり前で、そうでない生き方を選んだのは自己責任、と思い込んでいる人は多いと思います。
仕事のあるなし関係なく、思い込みは続いているのに、現実では「そうでない生き方」にならざるを得ない人がほとんどです。
そうでない、つまり、仕事があったとしても、何年働いても大して給料は上がらない、年齢が上がっても体力仕事で生活水準は低いまま、貯蓄もできない、という仕事の方が数が多いですよね。
労働人口が減っているから仕方ないのかもしれませんが、そりゃあ誰かに文句を言いたくもなります。
その生活と比べて、障害者・生活保護受給者が「ラクをしているように見える」から「ズルい」となるのでしょう。
自分よりも苦労=努力をしていないように見える。
どこまでも比較対象としての見栄えの問題で、社会的地位の上下の確認がしにくくなるのが、気に入らないのだと感じます。
けれどもこの状況は、自助努力でも自己責任でもありません。
他に選択肢が無いから、そうならざるを得なかったのですよね。
なのに、意識の中では「自助努力が足りなかった、自己責任で失敗したから苦労している」「自分が悪い」という「責め苦」が続いてしまう。
その「責め苦」が、
自分より能力が低いくせに、自分より努力(=苦労)をしている素振りが見えない。
だから責め苦(ズルという認定)を与えてやろう。
という価値観になってしまうのではないか、と感じます。
神社の石段をうさぎ跳びで上る美談のような、苦労こそが美徳、やらないヤツは非国民、という古い価値観に縛られているのですよね。
マイノリティが感じる「ズル」
反対に、障害者のようなマイノリティから見ると、マジョリティに属しているだけで「ズル」、と感じることも、多々あります。
以前、乙武洋匡さんも言ってましたが、障害者は「親ガチャ」に外れたどころではないレベルで、生まれた時点でハズレガチャを引いてしまっているんですよね。
健康な、当たりガチャを引けた人を羨ましく感じるのは、仕方のないことかと思います。
ただ、当たりがズルなのか、というとそんなことはなく、単なる確率の問題なんですよね。
それが、育っていく過程で、ダメなヤツ、バカなヤツ、といじめられたりしていく内に、「また出し抜かれた」「アイツら、ズルばかりしやがって」という怒りを溜め込んでしまうのでしょう。
時々、意味もなく不機嫌な障害者、という人を見かけますが、そういう人ってたぶん、マジョリティはズルい、という被害感情を持ってしまっているのだと思います。
彼らは大概、認知のバイアスが偏ってしまっていて、視野狭窄になっているんですよね。
逆もまた、そうなのだと思います。
福祉的サポートを受ける人を「ズルい」と感じる健常者も、誰かから出し抜かれた経験から、視野狭窄を起こしてしまっているのだと思います。
過剰な競争・過剰な自己防衛が敵対感情を煽る
結局、この「アイツらはズルい」というのは、健常者・障害者どちらもが、競争に負けた記憶から来る自己肯定感の低さ故に、過剰な自己弁護をしなければならなくなっているから出て来る問題、なんですよね。
なぜ、相手を貶めてまで、自己弁護しなければならないのか。
上を見ればきりがなく、健常者といえども上の方から「お前は努力が足りない」「苦労を避けるからダメなヤツなんだ」と責められ続けて生きてきたと思います。
個人の資質を越えた努力のしようがないことまで、他者と比較され、そう言われ続ければ、いい加減に嫌になります。
なのでもう、世間から、自助努力の足りないお前が悪い、と思われたくないから、自己弁護のために他者を貶めずにはいられなくなってしまう。
けれど実際は、自助努力が足りないから今の状況になっている訳ではないです。
自己肯定感の低さは、自己責任のみに原因があるとは言えません。
自己弁護する必要など無いんですよ。
ただ、自分の中に植え付けられた価値基準が、許してくれない。
だから世間も許してくれないのではないか、と感じてしまう。
このブログ記事を書いていること自体も、私の自己弁護、と言えるでしょう。
世間の目を過剰に恐れるのは、良くも悪くもとても日本的なのですが、不満や怒りを溜め込むことは、疑心暗鬼を煽り、世間そのものを機能不全にしてしまうのではないでしょうか。
人間って、そこまで自罰的(翻って他罰的)には生きられないのではないかと思います。
世間の目というのは、結局、自身の価値観から出て来るものだと思います。
価値観などは所詮人間が作っているものですので、そこまで厳しい目を持つ必要はない、と思うのです。
世間を恐れるあまりの過剰な自己防衛が、人間らしい生活を破壊してしまうのでは、それこそ意味不明です。
「ズル」ということは、誰かが「トク」をしているはずなのですが、この場合の「ズル」は、実体の無い疑心暗鬼でしかなく、誰も得などしないのですよね。
お互いに、ギスギスするのはやめましょうよ、ね。



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