芸能の世界って、人身売買や人権侵害に結びつきやすいです。
これを放置していると、いつまでたっても芸能関係の方々の尊厳は守られません。
働き方がどんどん多様になっている昨今、「芸能は特殊だから」と放置するのは、他の職種の人の尊厳搾取にも繋がります。
先日の元・舞妓さんの訴えに対して、
「芸事の世界に足を踏み入れたのだから、堅気の世界の常識とは違って当たり前。それをとやかく言うのは筋違いだ。」
という意見が出てきてしまうこと自体、「相当に危うい事態」なんですよ。
格式の高い「お座敷遊び」ができる場所は限られています。
お金だけではなく名誉・品格なども兼ね備えた男性に対し、「人生丸ごとのおもてなし」をする場所なんですよね。
(人生丸ごと=社会的にも私的にも=生・性丸ごと)
そこで接待を受けられる人は、ごく限られた人だけです。
その場で現金払いのような無粋なことはできませんし、明朗な会計などの野暮なこともしません。
月単位などのツケで支払うため、当然一見さんはお断りですし、信頼できるお客さんからの紹介者以外は遊べないシステムです。
会員制のクラブと考えれば解りやすいかもしれません。
元々が「閉じられた世界」「浮世の外=法外」のシステムなんですよ。
けれど、閉じられた世界の内だけでそのシステムを長年維持するのは、無理なんですよねぇ。
外の世界のヒトやカネを呼び込まなければ破綻します。
外の世界とつながれば、当然「ガラパゴス的常識」は通用しなくなります。
法外のガラパゴス的常識で、人生丸ごとのおもてなしに外界のお嬢さんを使えば、当然「性的搾取」になります。
東京には観光客向けに作られた「花魁ショー」があります。
ショーとして花魁道中やお座敷遊びを再現してくれますが、当然、本物の花魁ではありません。
当たり前ですが、どんな上客だろうとお床入りはできません。
(このショーも一時期、遊女の真似事を観光ショーにするのはどうなんだ?という物議を起こしていました。)
本物の花魁文化=吉原遊郭を保とうとしたら、下級遊女がどれだけ必要になるか。
華やかな遊郭の文化って、とんでもない人権侵害・人身売買・奴隷労働に支えられて成立している、「世間の外にある閉じられた世界」なんですよ。
現在の感覚としては到底受け入れられない、「非常識なルール」で成立していたんですよ。
京都の三業地も同じですよね。
⇩三業地とは コトバンク

本物の花街文化を維持しようとしたら、現在のほとんどの人から受け入れられない「人身売買の世界」になってしまいます。
もし文化を継続させたければ、クリーンで風通しが良いことを外部に証明する必要があります。
(性的サービスはしない、という建前でとりあえず通せますが、これも、ねぇ…。)
また、部外者を排除することで格式が保てる面もありますが、そこにこだわると、業種自体が維持できなくなります。
外に開かれないと、地域・業種全体が衰退してしまうのは、たぶんどこでも同じではないでしょうか。
仕事をするのは、生きるため、です。
人が生きるために職業に就くのですから、その職業が公正に運営されていることを証明できなければ、「現在の倫理観」で生きる人々には、決して信用されません。
これは、地下アイドルなどの興行にも言えることなんですよね。
アイドル・タレントの育成の仕方は、マイナーな事務所ほど、舞妓さんの育成方法と似ているんですよね。
衣食住は合宿で賄われるけれど、興行で得た収入はレッスン料として事務所に徴収されてしまう。
アイドルになりたい子たちの熱意で事務所は収益を上げ、本人たちへの見返りは「将来の夢」という漠然とした希望だけです。
「夢を実現させたければ熱意を見せろ」と言われたら、お得意様との酒席にも同伴するのが当然だ、と思い込んでしまいます。
「芸能」でなかったら、単なるやりがい搾取ですよね。
この方式の極端な例がAV業界、とも言えるでしょう。
職業としての「芸能」を夢見させることで、性の搾取を断れなくする・人身売買に持ち込む、という仕組みです。
演技なのか本当なのか、区別のし辛いAVという業態には、「芸能」の闇の部分が凝縮されているように感じます。
また、タレントは「疑似恋愛の対象」ともなりますので、性風俗従事者と似た業態にも持ち込みやすくなります。
芸能をプロデュースする側が、しっかりとした倫理観を持っていなければ、芸能を目指す人はいくらでも搾取されてしまいます。
なぜ「芸能」という仕事では、そういう仕組みが許されてしまうのでしょうか。
「芸能」って、元々は「日常生活の外側」にあるモノだったんですよね。
農業・工業などの、日常生活に不可欠な仕事をしている人たちへのカンフル剤のような役割です。
芸能は、死者や神様などの「非日常=この世ならぬモノ」と交わる場所に、位置していたんですよ。
日常生活のカンフル剤として役に立つけれど、日常の中に「この世ならぬモノ」が入り込むと、日常が乱されてしまう。
だから冠婚葬祭などの「非日常」にだけ、芸能が関わるような仕組みになっていたんですよね。
明治以前に芸能に関わる人達が被差別民であったのは、そういう理由からなのですが、今でも元舞妓さんの訴えに対し「堅気の世界じゃないのだから当然だ」などと言う人がいるのも、こういう経緯を未だに引きずっているからなのだと感じます。
タレントになりたがる子は搾取されても仕方ない、という感覚も同根にあるのではないでしょうか。
けれども現在、「芸能の無い日常」って考えられませんよね。
街中にいても、TV・ネットを見ていても、芸能・音楽・芸術に関わる物が全くない、なんてことは、まずあり得ません。
それほどに、日常に不可欠なものになっています。
コロナの感染爆発が起きた頃、エンターテイメントは真っ先に「不要・不急」に分類されました。
その分類の感覚も、一昔前の「非日常」という感覚から来るものだと思います。
しかし実際には、ライヴなどのエンタメに関わる業種の人が、どれだけ仕事を失くしたか。
その人数・業種の多さを考えても、「芸能という業態は非日常、世間の外側のもの」とは、もう言えないですよね。
芸能関連の職種は、当然のことながら「世間の内側」で生活する人で成立しているんですよ。
伝統芸能も同じです。
「堅気ではない、特殊な人」ではないんですよ。
他の職業の人と同様に、芸能関連の人の尊厳も、守られて当然なんですよね。
と言うより、「この職種には尊厳などない」というものがあってはいけないんですよ。
職業に貴賤は無い、などと言う以前の問題、人としての尊厳を奪わせることで対価を得ることは、職業ではないのです。
それを理解できるかどうかで、文化が発展するか衰退するか、が別れるのではないでしょうか。
伝統文化も、新しい芸能・芸術も、よりよく発展することを願ってやみません。



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