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障害者は存在するだけで「悪」なのか?

障害に関して

この質問を直接訊かれて「そうだ」と答える人は少ないでしょう。

けれど、本音としては、どうなのか?

実際、「生まれてごめんなさい」「存在することが悔しい」と言う障害者はいますし、障害者にそう感じさせる空気を世の中は持っています。

この、「建前」と「本音」の乖離は何なのか?

少し考えてみようと思います。

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障害者の「罪悪感」/ 健常者の「被害感」

障害者の「罪悪感」

SNS上に書かれる、障害者のつぶやきに、

「存在することを否定しておきながら、社会に関わることを強要してくる世の中」

に対する、怒りと悲しみを見ることが多いです。

障害当事者である私も、実際に、同様の怒りや悲しみを感じます。

マジョリティから「使えないヤツ」として追い出しておきながら、マジョリティに入る努力をしない悪いヤツだ、とマジョリティから非難されます。

一体どうしろと言いたいのか。

「存在してごめんなさい」と言う以外、何もできません。

なぜ障害者は、存在するだけで罪悪感を覚えなければいけないのでしょうか?

できる子にはご褒美、できない子には罰

たぶんこれは、子供のころから、

「できる子=良い子 / できない子=悪い子」

という価値基準を植え付けられているから、なのではないでしょうか。

運動ができて勉強ができる子を「良い子」としてほめる。ご褒美を出す。

運動や勉強の向上を頑張らせるためのインセンティブになりますよね。

頑張って努力をすれば向上することに対してならば、努力をする動機付けになります。

けれども、努力や頑張りではどうにもならないことに対しては、なんのインセンティブにもなりません

なので、努力や頑張りの様子が見えない子には「罰」を与える。

今の教育現場で、テストの点が悪いから校庭10周走れ、なんてことはさすがに無いでしょうが、

冷笑見下しという、人間関係内での「制裁」ならば、どんなコミュニティにでもあるでしょう。

この「制裁」が恐ろしいから努力で挽回する、という動機付けにはなりますが、元々努力や頑張りではどうにもならない事柄の場合は、どうなるのでしょう。

そもそも人は、ほめられればうれしいものです。

子供は特にそうだと思います。

友達がほめられていたら、自分だってそうして欲しい。

なのに、ほめられる事に競争心を持っていなさそう、ほめるというインセンティブに無反応ということは、頑張ってもほめられるレベルに達せない自身の能力に、気付いているから、なのですよね。

お友達の○○ちゃんと競ったところで惨めなだけ、と気付いてしまっている。

ところが、「無邪気な大人たち」が、いい子の○○ちゃんみたいに頑張りなさい、と無邪気に煽る

子供にとっては、制裁以上の絶望になります。

「○○ちゃんにかなわない自分は悪い子、ここにいたらいけないんだ」と。

子供のころから障害のある人、障害を気付いてもらえなかった人は、これをずっとやられ続けているんですよ。

さらに、友達と比べて出来の悪い自分のせいで、親や兄弟が恥をかいている、となれば、いたたまれません。

だから、自分の存在自体に罪悪感を持ってしまうんですよ。

健常者の「被害感」

一方、障害者を見下す健常者の方は、どうなのか。

これ、程度の差こそあれ、障害児と同じ目に遭っているんですよね。

小中学生のころを思い出してみてください。

スポーツ万能で勉強の成績もずば抜けていた子って、どのくらいいましたか?

クラスに一人か二人くらいの、特別な子だけ、ですよね。

どんなに頑張っても、クラスの上の方にいたとしても、「特別な子」を追い抜くことはできない。

それでも、親や先生は「もっと頑張れ、やればできる」と無邪気に煽ってくる。

できる子はできる子なりの「悔しさ」を、味わい続けていたと思います。

「悔しさ」を解消する、一番手っ取り早い方法は、「できないヤツを見下す」ことです。

ところが、学校のクラスというのは、何かと団体行動で「全体主義」です。

できない子がいると、クラスの連帯責任にされてしまう。

余裕がある子ならば、「しょうがないな」で済ませられるかもしれませんが、普段から「もっと努力しろ」と追い立てられている子だったら、どう思うでしょう。

「コイツがいるから、自分の評価が下げられた」

「コイツらに、自分の努力が搾取された」

と捉えるようになるのではないでしょうか。

競争を強要して苦しめているのは「下位の者」ではないのに、「下位の者のせいで苦労させられている」に変換されてしまう。

健常者が持つ「被害者意識」って、結局はこれなのではないでしょうか。

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「働かざる者食うべからず」

下位者に搾取されている、という感覚を強めることばとして、

「働かざる者食うべからず」

があると思います。

働かない者=稼げない者は、食ったら(生きていたら)ダメなのでしょうか。

これって、江戸時代の貧しい農村での価値観ですよね。

村人総出で農作業をしても米の実入りが悪く、全員を食べさせることができない、という状況下で、働けなくなった老人はお山へ行ってくれ、という話でしょう。

ましてや、親が成人していない子供に対して言うことばではありません。

子供は労働力にならないのが当然なのに、このことばを子供に言って、脅す親は多いですよねぇ。

何故なのか。

親自身が能力主義の社会で、穀潰し扱いをうけているから、ですよね。

このことばを言う親は、そんなに無能なのでしょうか?

たぶん、そんなことはない。

普通に働いて、普通に給料を貰っているのだと思います。

なのにどうして、社会の穀潰しなのか。

能力の限界を認めず、努力で能力以上の富を社会にもたらさない者は、「搾取者」「穀潰し」にされてしまうんですよね。

つまり、大人の社会の価値観が、自身の子供の首を絞めているんですよ。

人間の能力には限界があることを認めましょうよ。

「頑張る」とか「努力」とかは、本人の能力に見合った範囲のものだからこそ、意味があるんですよね。

能力から外れた「努力」って、単なる苦役=拷問でしょう。

「自分は先輩からしごかれた、虐められたから、目下のヤツをいたぶる権利がある」とか、「高みを目指せ」という言い訳ができる分、虐めとしては高度なものだと思います。

過剰な能力主義が子供の虐めを煽ってしまうことは、誰でも解ると思いますが、子供は大人を写す鏡です。

大人の価値観が変わらなければ、同じ事が繰り返されてしまいます。

過剰な能力主義は健常者の存在も否定する

結局、過剰な能力主義の中で自信を潰された人達が、自分を否定したものと同じ文脈で、自分より劣っているであろう「障害者」を「否定したい」。

やまゆり園を襲撃した植松死刑囚が持っていたものと、同じ欲望だと感じます。

この倒錯した暗い欲望が、社会のデフォルトとなってしまっているから、障害者は「存在してごめんなさい」という感情を持ってしまうのですよね。

そして、抑圧された健常者は、社会の文脈から「出てしまおう」とする障害者が許せない。

能力の劣る者に罰を与える立ち位置を得る、という欲望が満たされなくなってしまうから。

その暗い欲望は、あなた自身を否定し罰しているのだから、欲望自体を捨ててしまえば良いのではないでしょうか?

健常者であっても、特別な能力がない限り、存在を否定されて罰されてしまうのだから、その文脈の外に出てしまえば良いのではないですか?

…既得権益があるんですよね。

けれど、その権益と、未来の自由と、どちらが良いのでしょう。

権益と思っているモノが、実は「搾取」だったりしませんか?

「下位の者を苦労させたい」という願いは、自分を苦役に縛り付ける「罠」ではないですか?

能力の限界を否定する世界の怖さを、よく考え直した方がいい、と感じます。




ブログ筆者  鈴木紗々夜  https://amzn.to/3MCIgqY
障害者就労で感じた無意識の差別、能力主義の不都合、制度の矛盾…等々…本人の体験から感じたこと、改善したいこと、これからの社会へ願うこと、などを書いています。ご興味がありましたら、どうぞご一読ください。よろしくお願いいたします。
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