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差別される差別主義者? ‐ 他文化の否定をせずに自文化を肯定するには

障害に関して

私が障害者雇用で働いていた場所では、「部外者を否定することで部内の結束を図る」という「文化」がありました。

これ、中学・高校の部活やクラスのカーストでもよくある「価値基準」です。

私が二十代の頃に健常者として働いていた職場にも、ありました。

この価値基準は、子供の頃から何かと「異質な者=部外者」と見られていた私にとっては、辛いものです。

しかしそれを否定したら、この価値基準を「当たり前の文化」として持っている人はどう感じるか。

私の体験を、少し考え直してみようと思います。

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子どもが覚える「ウチが正しい」という感覚

小さい子どもにとっては、自分の家が「社会の全て」です。

普通とは言えない家で育ったとしても、子どもにとっては、自分の家は普通なんですよね。

家の中でのルールを覚えなければ生きて行けないので、自分の家で普通とされることが「正しいこと」という感覚になります。

すると、自分の家とは違う生活基準を持った人は正しくない、悪い人と思ってしまうんですよね。

学校などで多様な人と関わることが大事なのは、自分の家と違う価値を持ったお家も「普通に」たくさんあり、それは決して悪いことではない、という実感を持つことができるから、なんですよね。

最初の差別体験「スクールカースト」

スクールカースト - Wikipedia

それでもやはり、生活レベル≒価値観が似た人の方が、付き合いやすいのが事実です。

学校では、自分と似た価値観を持った人同士でかたまりやすいですよね。

それがスクールカーストになっていくんですよね。

人が最初に差別をしたりされたりするのは、家族関係を除けば、学校でのカースト体験なのではないでしょうか。

スクールカーストでは、自分の所属するカースト以外の人を蔑む、つまり差別をするのが普通です。

私はスクールカーストで、ほぼ最下層にいました。

ほぼ全員から見下される立場です。

それでも、最下層に属する私たちでさえも、他のカーストに属する子たちを馬鹿にしていました。

下層から中層のカーストは、お互いに蔑み合うことで、自身のプライドをどうにか維持していたんですよね。

学校内での地位は低いが、彼らのような馬鹿よりはマシだ、と。

カーストの最上位者に関しては、私はよく解りません。

なにせ、関わりが何もないわけですから、何か超然としているように見えていました。

スクールカーストで軋轢が生じるのは「近隣のカースト」同士で、更にその一つ上くらいが「ゲームの一環として」虐めを仕掛けて来て、それ以上身分が離れると関わり自体が無くなる、という関係だったように思います。

子どもの世界は結構残酷です。

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「仲間以外は蔑むのが当たり前」になってしまう

この感覚を引きずったまま大人になってしまうと、自分と同じ文化を持たない人は蔑んでいい、となってしまうんですよね。

学校内で気に入らない人たちを力で排除してきた実績があるので、それが「悪いこと」とは全く思っていないんですよね。

むしろ、外部の者を一緒に蔑むことが仲間の証だと思っているフシがあります。

仲間内だけで生活のできる人は、それでもいいのかも知れません。

しかし、多様な人が関わるような職場でそれをやるのは……


就活をしてみて、実感として解ったのですが、企業は「同質の文化を身に付けた人だけで固めたい」のですよね。

確かにその方が効率が良いですから。

しかし、それでは人は集まりませんよね。

中にいる人は楽なのかもしれませんが、とても子どもっぽい集団だと思ってしまいます。

実際、私が障害者雇用で働いていた場所も、視野が狭い職場だったと思います。

表現をぼかして書きますが、その職場では、人権に関心のないA国、不法就労者をコンテナに詰めて集めるB国、等々いろいろ「労働条件の厳しい外国」からの「手軽な製品」を扱っていたのですが、やはり数が合わないなどの問題があるようでした。

障害者雇用されている私たちの目の前で

「A国人の適当さとB国人の適当さは質が違うが、どちらも数すら勘定できない馬鹿」

(それに比べれば日本の障害者はお利口さん)

という表現をしてしまう……

「ガイジンではない、障害者雇用されているあなた方は、たとえ能力が無くても仲間として認めてあげますよ」(^_^)

という意味なのですが、たとえ悪意がなくても、余りにも失礼なんじゃないか、と思ってしまったのですよ。

外国の文化に興味がなければ、A国B国の下層労働者がどんな待遇か、などという想像はできないのでしょうが、目の前の障害者がそのことばを聞いてどう感じるかの想像もできない、というのは、何なのでしょう。

要するに、視野が狭い、価値観が未熟、なんですよね…。

多様性の否定=文化の未熟さ

多様性が受け入れられない、という気持ちも、解らなくはありません。

感情的に気に入らない人と、一緒にいたくはないですもんね。

けれど、世の中って学校のカーストのように「狭くて密」ではないんですよね。

気に入らない人と、密な関係にならなくてもいいのですよ。

「蔑み」という感情をぶつけなくてもいいのですよ。

自分とは違う「他者」がいることが気に入らない、というのは、単純に考え方が子どものままで、「お家こそが正しい」という感覚を引きずったままなのだと思います。

他者が存在すること自体を認めないという価値観を固持すると、文化が成熟できない、と感じます。

他者が存在することが認められないということは、自分自身を把握できないことになります。

自分自身を把握できないからこそ、外部を差別せずにはいられないのですよね。

他者の存在が認められれば、自然と自身の把握もできます。

他文化を否定しなくても、自文化を認められるんですよね。

時々、「差別はダメ、と言うのが差別だ」と言う人がいますが、これは単純に価値観が未熟なんですよね。

「自分にはアイツを嫌う自由がある」

はい。あります。

嫌うのは自由ですが、攻撃はダメなんですよ。

自他の区別が曖昧だから、この違いも曖昧になってしまうんですよね。

バウンダリーをしっかり持とう

境界線(バウンダリーズ) 単行本 – 2004/10/1
ヘンリー・クラウド  (著), ジョン・タウンゼント  (著), 中村 佐知 (翻訳), 中村 昇 (翻訳)

学校で、同じカースト内の子どもは「何でも同じ」であることを望みます。

同カーストの内部では、自他の区別がとても希薄なんですよね。

その関係の持ち方しか知らないまま大人になると、自分に合わせてこない他人が、とにかく気に入らない状態になってしまいます。

けれど、世の中にはスクールカースト内とは違い色々な人がいます。

どんなに強い人でも、いちいち攻撃していたら、身が持ちませんよね。

弱い人間なら、尚更です。

攻撃したくないし、されたくないのです。

お互いに他者のバウンダリー(境界線)を破壊しないでいられるかどうかが、文化の成熟度の指標なのかも知れない、と思います。




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