ACや虐待サバイバーの中には、「親を許す」ということばが、どうしても受け入れられない人が多いと思います。
「許す」って、親がやった不適切な言動を、無かったことにしてあげるという意味ではない、と思うんですよね。
そのことを少しまとめてみます。
「罪」と「罰」をどう捉えるか
ACや虐待からのサバイバーは、親から受けた「不適切な行為」の記憶に、どう向き合ったらよいか苦しんでいます。
親の行った「罪」を、どうにか「罰する」ことはできないか、と怒りに囚われてしまうんですよね。
なので、まず「罪」と「罰」をどう捉えたらよいのか、考えてみます。
「行為」と「その人」を分けて捉える
例えば刑事事件を起こした人の場合、刑を受けることで、悪い行為をした責任を取った=「罰を受けた」ことになります。
けれども、刑務所から出所すればそれで終わりという訳ではありません。
この「元犯罪者」には、「更生する責務」があると思います。
本当に反省していたら、二度と罪を犯さないようにしますよね?
犯罪を二度と起こさなければ、この人に関わる被害はこれ以上は出なくなり、秩序が守られます。
それが「更生」する意味だと思うんですよね。
⇩更生とは weblio辞書より
かつての犯罪者が、世間で更生することは、もしかすると刑務より重い作業かも知れません。
それでも「被害」は無かったことにはなりません。
やってしまったことは、決して「無かったこと」にはならないんですよ。
それでも、元犯罪者が更生してくれなかったら、更に被害者が出ることになってしまいます。
被害の再生産は、被害者にとっては「再度の屈辱」になります。
これ以上の被害を出さないためにも、元犯罪者には「更生の余地」を与えなければ、どうしようもありません。
そして当然ですが、元犯罪者も元被害者も、生きている限り、事件の後も生きて行かなければなりません。
やってしまった「過去」は変わらないし無かったことにはなりませんが、「人」は生きている限り、老化であろうが何であろうが変化します。
変化の余地には、成長の余地も含まれます。
この、取り返せない「過去の行為」と、今も生き変化している「その人」を分けて考え、成長の余地を望むのでなければ、被害者加害者双方とも、事件が起きた時点から前へ進めなくなってしまうんですよね。
変化できることは、未来への希望につながります。
被害者加害者双方に、この「希望の余地」を作るのが、社会の責任だと感じます。
更生は被害者救済と対の問題
それでも、被害者の傷は決して無くなりません。
加害者の更生とは別に、被害者の救済(更生)もなければ、片手落ちになります。
ACの自助グループなどに来る人は、この「被害者救済」を求めている訳ですよね。
自助グループで使う「12のステップ」は、ある意味「更生」の方法です。
「被害に遭っているのに、なぜ更生しなければならないのか?」という受け止め方もあると思います。
例えば、加害者が故意に被害者を引っ張り、一緒に穴に落ちた状態を想像してみてください。
加害者・被害者の立場は全く違っても、「穴から抜け出る」という行動が必要なのはどちらも一緒です。
被害に遭うというのは、本当に理不尽なことなのですが、とにかく「穴から出る」という行動を取らなければ、救済されようがないのですよね。
本当に理不尽なのですが、加害者と同じように「更生」の方法が、被害者にも必要となります。
加害者の更生と被害者の救済は、ある意味「対」になっているんですよね。
「罰」を理解できない人も存在する
また、被害者救済の一つとして、加害者に対する処罰があります。
刑事事件ならば刑事罰がそれになります。
犯人は他者に理不尽な被害を与えたのだから、同等の痛み・苦しみを感じて欲しい、というのは、極自然な感情だと思います。
ただ、根本的に痛み(=罰)を感じられない、理解できない人というのが、一定数いるのですよね。
刑務所に入る意味すら解らない人も、一定数います。
幼少期からの育ち方、教育の問題もあると思いますが、やってはいけないことを平気でやってしまう人(いわゆる毒親もこの部類でしょう)には、このタイプも多いのではないでしょうか。
子供を虐めた親に対する明らかな「罰」は、事件にでもならない限り、今のところはありません。
はっきりとした「罰」が無いのですから、元々鈍い人であれば、「罰」など何も感じないでしょう。
そういう人に報復を試みるのは、無駄なんですよね。
⇩罰とは wikipediaより
事件での刑罰のような法的なことでない限り、報復行為は無駄になります。
理不尽なのですが、どうにもなりません。
自分の「罪」と、それに対する「罰」を、理解できるようになる「余地=時間」を、あたえることしかできないのですよ。
理解できるようになるかわからない、それでも罪を理解できるようになれる余地をあたえることが、一番の「罰」になると感じます。
失敗の自覚や、失敗の自覚すらできない自分に気付くことは、誰にとっても苦しいものです。
それでも「許す」とは何なのか
イルセ・サン著「こわれた関係のなおし方」に、「許すこととは、怒りを消すことでも忘れることでもなく」「相手に傷つけられたにもかかわらず、その人に何かをあたえること」とあります。
イルセ・サン (著), 浦谷計子 (翻訳)
何かをあたえる、つまり、自分の「罪」を理解できるまでの時間をあたえることも、許しの一種なんですよね。
かつて被害者であった人が、自分の人生を立て直し生き続けることが、かつての加害者への「罰」にもなり「許し」にもなります。
関係を切ることでもよいのです。
穴から出て、相手に囚われることをやめることが、結果として相応の「罰」にも「許し」にもなります。
過去に傷を負ったにも関わらず、穴から脱出し、自身の人生の時間を進めることが、回復にとって何よりも大切なのだと感じます。
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